第二話
ほどなく二人は、池のほとりに。
池には睡蓮が群生し、それぞれが艶を競って、咲き誇り。
十年前の、あの日に戻ったかのよう。
睡蓮は浮き立つ心のままに銀月の手を離し、池へ向かって駆け出した。
「……綺麗ねえ」
感極まった様子で、池を一望し、銀月をふりかえって同意を求める。
「ねえ銀月、おぼえてる? 昔あたしがこのお庭へきたときのこと」
が、銀月は、それには答えず。
「睡蓮、きみ、走り方が」おかしいぞ、と言いかけて。
睡蓮自身が答えるより先、その不自然な足運びの原因に、みずから思い当たって、口をつぐんだ。
「な、なによ」
隠し事をごまかそうとする幼児のように狼狽しながら、強がってみせたけれど。
すぐに睡蓮は、悪あがきをやめた。
「……そうよ、銀月の、せいよ」
肩をすくめて、銀月に背を向ける。
うなだれかかる首を意識して持ち上げ、池の美観を見渡すそぶりで、さりげなさを装い、ことさら軽い口調で、
「でも、いいわ。許してあげる。平気よ、なんでもないわ、こんなの、すぐによくなるんだから。だって、これって、あたしだけじゃなくって、女の子は誰でも大なり小なり」
睡蓮は、それ以上あとの語句を続けられなかった、なんとなれば。
銀月に背後から抱きすくめられ、あごを持ち上げられて唇を貪られたから。
抗う隙も、あればこそ。
嵐が通り過ぎるのを待つように、銀月の激情が過ぎ去るのを、待つしかない。
「……うそつき。ここではしないって、さっき言ったばかりなのに」
ようやく唇を解放されて、非難がましい目つきで銀月を見上げる睡蓮。
きみがあんまり可愛いことを言うからだろう、愛しさがこみあげて、どうにもならなかったんだよ、と銀月のほうこそ言い訳したくなるのをぐっとこらえて、
「こんなの、数のうちに入らないだろう」と、うそぶいてみせた。
「えっ、そうなの?」
心底から驚く睡蓮に、ふと悪戯心を刺激され。
「もしかして、我慢できなくなってるのは、きみのほうなのかい、睡蓮?」
とからかってみると。
「そ、そんなこと、ありませんッ!」
真っ赤になって、銀月の腕をすり抜ける。
なんでいきなり敬語なんだ。
そういえば、昔からそうだった。
睡蓮は、本気で怒ったり、うろたえたりすると、敬語になる妙な癖があった。
慰めも謝りもせず、ニヤニヤ笑うだけの銀月に業を煮やし、睡蓮はくるりと背をむけて、大股でその場を離れ去ろうとする。
……どうして、追ってこないの。
気になった睡蓮は立ち止まり、ちらっと銀月をふりかえる。
銀月は、余裕の笑みで睡蓮を見守っている。
べつだん慌ててもいなければ、追いかけてくる気配もない。
むかっ腹をたてた睡蓮は鼻息も荒く、ふたたび歩き出す。
なによなによなによ、あたしより少しばかり色事にたけてるからって、えらそうに。
いまに見ていらっしゃい、こう見えてもあたし、呑み込みは早いんだから。
そのうちに、あたしのほうが、あたしのほうが、上手になって、銀月を、メロメロにしてやるんだからっ!
「うわっ!」
姿を隠そうとやみくもに角を曲がった睡蓮は、何者かにぶつかってしまった。
「きゃああああっ!」
相手も驚いたようだが、睡蓮もまた、飛び上がらんばかりに仰天。
木陰へ姿を消した睡蓮の悲鳴に、銀月も顔色を変える。
「銀月、銀月、銀月っ!」
怪物に追いかけられたかの如く怯えて、来た道を全力で駆け戻ってくる睡蓮を受け止め、背に庇い、睡蓮を脅かした相手を、殺気をこめて待ち受ける。
「ご、ごめんなさい大哥(タォコウ=兄上)、おどかすつもりは、なかったのですが」
「四星か……」
いかにも申し訳なさげに顔をのぞかせた相手を認めて、銀月は緊張を解いた。
背中で、身頃を掴んで震える睡蓮へ、落ち着いて、大丈夫、弟だよ、と優しく声をかけ、安心させる。
睡蓮は、銀月の背中ごしに、おそるおそる相手を確認。
よく見れば、あきらかに自分よりも年下の少年。
きちんとした身なり、利発そうな面差し、少年の頃の銀月を彷彿とさせる。もっとも、銀月のほうが数段、大人びた翳りを帯びていたけれど。
それでもやはり、そこはかとなく似ている。血の、なせる業か。
どうしよう、あたしったら、あんなに取り乱して、恥ずかしい。
こんな線の細い男の子にぶつかっておいて、謝りもしないで、逃げ出したなんて!
「あの、あたしこそ、ごめんなさい、怪我は、ありませんでしたか?」
隠れていた銀月の背中から姿を現して、睡蓮は、ぺこりと頭を下げて詫び、首をかしげて相手を気遣う。
「はい、大丈夫です、睡蓮さんですね、四星です、はじめまして。お噂は伺ってました、ほんとにお綺麗な方ですね、それに、とっても」
あ、可愛いなんて言ったら、失礼かな。
四星はとっさに口をつぐみ、反射的に兄、銀月を観察。
四星は明華の子。
上に二人の姉をもつ。
銀月とは異母兄弟、しかも犬猿の仲、明華の息子であるにもかかわらず。
四星は銀月を、無邪気に慕っていた。
銀月は、その名の影響か、気性も月の属性を帯びていた。
照らされれば輝き、影に包まれれば闇に沈む。
嫌われると拒絶を示し、慕われると寛容を示す。
自分から感情を動かすことは、ほとんどない。
誰かの、なんらかの感情をうけてからでないと、自分からは動かない。
そもそも、睡蓮との関係からして。
幼い頃、睡蓮が銀月を絶対の庇護者と認め、盲目的なまでの信頼を寄せていなかったなら、銀月は美しく成長した現在の睡蓮を「女」と意識することに、これほどの罪悪感をもち、苦悩する必要はなかったろうし、また。
長じた睡蓮が銀月を、この世で只ひとりの男性と定め、一途に愛を捧げるのでなかったら、銀月はおそらく、ここまで睡蓮に溺れはしなかった。
異母弟、四星との関係も、然り。
四星は最初から、銀月に対して屈託がなかった。
明華や二人の姉から、銀月については好もしからぬ評判を、物心つく前から散々、吹き込まれていたであろうに。
四星は、姉たちのようには、母、明華の言葉を鵜呑みにはしなかった。
兄である銀月を、自分の目で確かめるまでは、そして。
その目に、銀月をおさめて以来、四星は銀月を兄と認めたのだった。
単純に、女親や女姉妹よりも、同性である兄のほうが、親しみやすかったのかもしれなかったが。
四星は「女」を未知のものとして敬遠する、本能に基づく警戒心が生来つよい性質らしい。
赤子の頃から、そうだった。
母である明華にあやされてもなかなか泣き止まないのに、むしろ父、水月が抱くと機嫌がよくなることが、ままあった。
四星も、睡蓮も、銀月を愛してくれる。
四星は兄弟として、睡蓮は恋人として、けれど。
銀月は、月の属性。
素直な気持を、寄せられても。
自分からは、率直にそれを返せない。
どうにも、照れるのだ。だからつい、意地悪をしてしまう。
自覚はある、これは悪癖だ、いっそひねくれていると言い切ってしまっても差し支えない。
わかっているのに、止められない。
銀月は四星を見下ろして、無表情だがその実からかい半分で、
「四星、いつからそこにいたんだ?」と聞いた。すると、
「ついさっきですよ」
間髪いれず、四星は答えたが。うつむいて赤面したので嘘だと知れる。
「で、なんの用でこちらへ出向いてきた?」
もっと突っついてやりたいのをこらえて、銀月が水を向けると。
四星はようやく本題を思い出す。
「あ、そうです、えと、巴巴(パパ=父上)が朝餉を用意して待ってます。大哥(タォコウ=兄上)と商い上の話があるのですが、今日は朝くらいしか時間がとれなくて、急用なので是非、とのことですが、いかがでしょうか?」
銀月は睡蓮を見た。睡蓮もまた銀月を。互いの気持を慮って逡巡している様子。
四星が、そんな二人へ提案。
「あの、では睡蓮さんもご一緒にいかがですか? あと一人分くらい、すぐに追加できますし」
睡蓮は遠慮がちに、答えた。
「でも、お仕事のお話があるのでしょう? お邪魔してはいけないのじゃないかしら。それに銀月、さっき侍女さんに朝ごはんを頼んでいたわよね、せっかく侍女さんが作ってくださったのを、無駄にできないわ。あたし、朝食はやっぱり銀月のお部屋でいただくことにします。
四星くん、せっかく誘ってくださったのに、ごめんなさい。お言葉だけありがたくお受けしますわ。
じゃ、銀月、いってらっしゃい。あたし、お部屋に戻るわね」
銀月は、からかい気味に、その実いささか本気で心配しつつ、問う。
「睡蓮、ひとりで帰れるのかい? ものすごい方向音痴だって自分で言っていただろう」
「あら、これくらいなら平気よ、だってここまっすぐ来たでしょ、もと来た道をたどればいいだけなんだから、あんまり子供あつかいしないでちょうだい」
銀月の気持を知ってか知らずか、たぶん知らないだろうが、睡蓮は生意気に言い返して、そっぽを向く。
四星のまえでは、お姉さんぶりたいらしい。
銀月は苦笑して肩をすくめ、では行ってくるよと言って、踵を返した。
四星も睡蓮に一礼をして、銀月の後に続く。
四世は、銀月にそっと耳打ち。
「大哥(タォコウ=兄上)、睡蓮さんは、まだこちらを見送っていますよ、にこにこしながら、手をふってます、ふりむいてさしあげたら、いかがですか?」
「…………」
銀月はそれには答えず、胸のうちで、つぶやく。
いま振り向いたら、そのまま彼女をさらって寝室まで駆け戻って押し倒してしまいそうなんだよ、四星。
「……綺麗ねえ」
振り向くかわりに銀月は、先刻、池に群生する睡蓮に見蕩れる彼女を脳裏にありありと思い描いた。
綺麗なのは、きみだ。
睡蓮、きみこそ、まるで花そのものだ。
きみがそこに、いてくれるだけで。
世界は、こんなにも、まぶしく、やさしく、甘やかで、美しい。




