表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誓言 ~砂漠を渡る太陽は銀の月と憩う~  作者: 中山佳映&宝來りょう
シーズンⅦ(かえ担当)
35/66

第一話

 ……銀月インユエ

 睡蓮スイレンが、呼んでいる。

 媚びを含んだ、甘い声。

 なのに、ちっとも厭らしく響かない。


 むしろ、愛らしい。

 少し、舌足らずなせいだろうか。

 発音も、どことなく怪しい。

 西域から流れてきた者特有の、歌うような喋り方。


 十年も、この首都、璃安りあんに居ついていながら、抜けない異国の訛り。

 頑固で、不器用な、それもまた、睡蓮の、いじらしい一面。


 嫌いじゃない。正調じゃなくても。

 睡蓮の声で、発音で、名を呼ばれるのが、心地よい。


 ……けれど、なんだか、遠いな。

 睡蓮、もっと近くに来てくれないか。

 いっそ耳の奥へ、その甘い吐息とともに、わたしの名を吹き込んで欲しい。


「銀月、ねえ銀月ったら、起きてよ、お寝坊さんね!」

「うっ」


 鼓膜と、胸の上に、衝撃が。

 おそらく睡蓮は弾みをつけて、横たわる銀月の胸をめがけて飛び込んできたのだろう。

 甘いささやきに酔うなどとは、夢のまた夢。

 子供じみた、はしゃいだ声が脳髄を直撃。


「とってもいいお天気よ、素敵な朝だわ、ねえ、お庭を案内してよ、一緒にお散歩しましょう、ねえ、ねえ、いいでしょう?」

「……うう、ううう……」


 悶絶する銀月を、睡蓮は容赦なく、ゆさゆさと揺さぶる。

 銀月は掛布を巻きつけながら、生気のない声で、抗議。

「……どうしてきみは、朝っぱらからそんなに元気なんだ」

「逆に聞きたいわ、銀月こそ、どうして朝から死にそうになってるの?」


 銀月は掛布から半眼をのぞかせて睡蓮を見た。

 睡蓮は大きな瞳をさらに見開いて、小首をかしげ、銀月を見下ろしている。

 逆光を背負った睡蓮は、後光がさした女神のよう。

 肩先から渦を巻いて寝床に流れ落ちる金髪、純白の胡服、透きとおる肌、上気した頬、輪郭全体が朝の空気にやわらかく溶け込んで。


 うっとりと見蕩れながら「庭を見たいって?」と、ぼそりと呟く銀月に、うんうんうんと勢い込んでうなずく睡蓮。

 期待に満ちた、まなざし。


 形勢逆転の悔しさが、銀月の胸中に暗雲として、広がる。

 ゆうべ死にそうになっていたのは、睡蓮、きみのほうだったのに。


「……ひとりで、行っておいで」

 意地悪な気分と睡魔にひきずられて、銀月は気だるげに寝返りを打つと、にべもなく言い放つ。

 たちまち睡蓮の口から「ええーっ」と、あからさまに不満げな声が漏れる。


「いやよ、一人でなんて。あたしは銀月と一緒にお庭を歩きたいの。

 あたし、ものすごい方向音痴なのよ。だって出歩く機会なんて滅多になかったんだから。

 この広いお庭で、あたしが迷子になっても、いいの?

 そうだ、それにね銀月、まだご挨拶をしていないのだから、おうちの方々は、あたしのことを知らないわ。

 あたしが一人でお庭をうろうろしてて、どなたかとばったり出会ったら、びっくりされてしまうわ。つまみ出されちゃうかもしれないのよ、ねえ、銀月は本当に、それでもあたしに一人で散歩をしろなんて言うの?」


 唐突に銀月は、がばっと身を起こし「すぐに支度をするから、待ってなさい」と言うがはやいか、てきぱきと衣服をまとい始めた。


 寝惚けている場合ではないぞ、しっかりしろ、と銀月は、おのれを叱咤する。

 この家の庭には、虎が放し飼いされているのだ。

 明華ミョンファという、獰猛な雌虎が。


 銀月の焦燥など知る由もなく、睡蓮はひたすら無邪気に喜んでいる。

 それでいい、と銀月は、思う。

 しゃんと目覚めてみれば、先刻、睡魔に負けたとはいえ愛する睡蓮に対して、ぞんざいな態度を示したことこそが、悔やまれる。


 身支度を終えた銀月は、母の代から仕えてくれている乳母でもあった侍女へ、少し庭を巡ってくるからその間に朝食を用意しておくようにと言い置いてから、

「待たせたね、行こうか」

 浮き浮きと待ちかねた様子の睡蓮をともなって、庭へ。


 睡蓮は、それが当たり前であるかの如く、銀月の手を握ってくる。

「な、なんだ」

 銀月は戸惑って、その手を押し戻す。

「なにって、手をつないでよ」

「…………」

「嫌なの? どうして?」

「…………」


「へんなひと。ゆうべはあたしにあんなことをしておいて、どうして今あたしと手をつなぐのが、そんなに恥ずかしいのよ」

 夜の薄闇の中と、明るい朝の光の中では、勝手がちがうのだよ。第一、子供同士でもあるまいに、今さら手をつなぐなど……という理屈は睡蓮には、通用しないらしい。


「はっ、まさか!」

 睡蓮は一歩あとずさり、怯えた表情で当て推量を口にする。

「あたしにふれたら我慢できなくて、お庭でもどこでもところかまわず押し倒してしまいそうだからなの?」


 銀月は、右手を眉間にあて、そこに刻まれた、たてじわを隠した。

「きみはわたしを、けだものだとでも思っているのか」

「ちがうの?」


 右手のかげから、銀月は睡蓮を見た。

 睡蓮は、ふざけてはいかなった。からかっているのでもない。いたって本気で、銀月本人を前にして、けだものとはちがうのか、という疑惑を、突きつけているのだ。

 銀月は右手を額からおろし、かぶりを振りながら、

「……とにかく、今、ここではしない」と、苦い顔をして、つぶやいた。


 睡蓮は、また一歩、しりぞいた。

 何故だ、安心しなかったのか、ここではしないと言ったではないか。


 睡蓮は、別のところに、ひっかかりを感じていた。

 ……銀月。

 自分がけだものだってことは、否定しなかったわ。


「どうした、散歩は、もういいのか」

 銀月、けだものだってことは、否定しなかったわ。

「……睡蓮?」

 銀月、自分がけだものだって。


 銀月は、ため息をつくと。

 睡蓮へむけて、手をさしのべた。

 もしや先刻、自分が睡蓮の手をほどいたことで彼女が気分を害したのでは、と推測したらしい。


 ……手をつないであげるから、機嫌を直しなさい。

 照れた仏頂面で、無言で。

 それでも譲歩してくれた銀月に、睡蓮は心うたれ、笑み崩れ。


 さしのべてくれた手に指をからめ、はずむ足取り。

「ねえ、銀月、あたし銀月がけだものでも、好きよ」

 どぎまぎした銀月がそっぽを向いて赤面したのも、気づかずに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ