第三話
銀月と四星の後ろ姿がまったく見えなくなるまで見送ってから、睡蓮は、くるりときびすを返して、帰途についた。
……もっと一緒にいたかったのに、つまんない、なんて。
そこまでのわがままは、言ってはいけない。
軽やかな足取りは、沈みがちな心を、あえて鼓舞するため。
だって銀月は、あたしを得るため、お父様と約束をしたんだもの。
御曹司らしく、お仕事を手伝うって。
結ばれたからって、四六時中、一緒にいられるわけがない。
御伽噺じゃあるまいし、おとなだもの、それくらい、わかってる。
なにより、あたしは。
安い買い物では、なかった。
これまでのように、銀月は、自由に遊び暮らしては、いられない。
あたしは、とんでもないことを、銀月に望んでしまった。
あたしを引き受けるということは、経済的にも莫大な犠牲をはらうということでもあって、つまり、あたしは。
銀月の、負担になっている。
幼い頃からの願いが理想の形ですべて叶った今になって、改めて。
御伽噺でない故の憂いが頭に重くのしかかり、胸をふさいで、睡蓮の歩みを止めさせた。
うつむいた睡蓮の視界を、ふと、淡紅色の小さな花びらが、ひらりと横切った。
ひとひら、ふたひら、と。
顔をあげると、そこに。
満開の、梅の木。
……どうして、こんな季節に。
梅の花が?
さっき、通りがかったときには、当然、咲いてなんか、いなかったのに。
そして、木の下には、人影が。
よくよく目をこらしてみると、背景が、透けて見える。
影がうすいどころの話ではない。
……銀月?
ううん、似てるけど、銀月じゃない、だって、このひと、女性だわ。
はっ、もしかして。
昔、亡くなった、銀月の、お母さま?
死者と相対している、その事実に思い至っても。
怖ろしくは、なかった。
面差しは最愛の男と生き写しだし、そのうえいかにもか弱く、儚げで、睡蓮よりも、小柄。
なによりも。
この方は、銀月を産んでくださった。
だから、睡蓮は。
むしろ相手を安心させるように、ふんわりと微笑んで、はじめまして、睡蓮といいます、と、ごく自然に挨拶をした。
「銀月が、睡蓮と名づけてくれたんです。あの……あなたは、銀月のお母さまですよね?」
生者に正視されて、あまつさえ話しかけられて、戸惑ったのは死者のほう。
ふっと梅の木から姿を消した。
睡蓮があわてて見回すと、銀月の母は別の木の下へ、音もなく一瞬で移動していた。
「あ、待って、待ってください!」
睡蓮がその木へ駆けてゆくと、また別の木へ。
「待って、おねがい、あたし、あたし、こわくありませんから!」
あたし、全然平気です、お母さま、待って、お話がしたいんです、と。
夢中で追いかけているうちに、睡蓮は。
方向を、完全に見失ってしまった。
銀月の母も、見失ってしまった。
「……ここ、どこ?」
困り果てて「おかあさま?」と虚空に呼びかけてみても。
誰も、応じてはくれない。
どうしよう、戻れない。
「あんまり子供あつかいしないでちょうだい」なんて、大口を叩いたくせに、この体たらく。
半べそになりながら、とぼとぼと歩みを進めていると。
林が途切れて、視界がひらけ、東屋が。
女性がひとり、腰かけて。
「お母さま?」
一見して別人とわかったのに、思わず睡蓮は、そう口走っていた。
相手は、鮮やかな生命力を全身から放つ女丈夫である。決して見間違ったのではない。
聞き覚えのない声で、いきなり「お母さま」と呼ばれ、東屋でくつろいでいた婦人は、怪訝な顔で振り向いた。
明華だった。
睡蓮は、この婦人が明華だとは、知らない。
一方、明華は、すぐに察した。
金髪、紫の瞳、透きとおる雪白の肌、噂にたがわぬ美貌。
睡蓮。
銀月が家へと連れ込んだ、西域から流れてきた、踊り子。
明華と睡蓮。
朝の光ふりそそぐ庭の東屋で、ふたりは無言で見つめあう。
やがて、睡蓮の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
明華は、ぎょっとして、
「なによ、なぜ泣いているの、わたしはまだ、何もしていませんよ」
とっさに本音を吐かされた。
なんて迂闊な。わたしらしくもない!
この娘、気味が悪いわ。
美しすぎて、人間離れしていて、まるで異次元の生物みたい。
ひとまず立ち去ろうと腰を浮かせた明華の胴へ、なんと、睡蓮は、子供のように跪き、しがみついてきた。
「ちょ、ちょっと……」
ひきはがそうとして、睡蓮の体に触れたのに。
力が、はいらない。
睡蓮は泣きじゃくりながら、
「……お庭で……迷ってしまって……うっ、ひっく……ひっ……」
「…………」
睡蓮の涙の理由は、見かけほど単純ではなかった。
銀月の亡くなった母を目撃した、超常現象に遭遇したという、衝撃に加え。
愛する銀月の母へ、語りかけたのに応じてもらえず、それどころか避けられ、とうとう置き去りにされ。
置き去り。
それは睡蓮にとっては、永遠に癒えない過去の心の傷に直結する出来事で。
銀月の母、つまり家族に拒絶される、という事実も、耐え難かった。
そこへ現れたのが、明華。
くっきりとした輪郭をもつ、生命力にあふれた、生身の女性。
銀月の母、月梅が、玄妙なる花精なら、この明華はさながら、大地に根ざす現世の樹そのもの。
異界の月梅と接した直後に、睡蓮と同じ現実界に生きる明華に出会えば、緊張が解けるのは自然の理。
月梅とは全く別の意味で、しかし月梅と同じくらい、睡蓮は明華にも、親しみを感じたのだった。
けれど睡蓮は、言葉が達者ではない。
感情が高ぶっていては、なおさら、自分の心境を、理路整然と説明できない。
しがみついて、泣きじゃくって、これでは、単なる迷子としか見られない。
睡蓮本人にも、それはわかっていて、うまく伝えられないことが口惜しく、もどかしく、その葛藤がさらに彼女を、取り乱させる。
明華は明華で、こちらもまた困惑の極致。
邪険に押しのけてやれば、いいものを。
意思に反して、手のひらは睡蓮の頭を撫でる。
自分とは、あきらかに異なる、輝く金髪に触れてみたかったのだ。
そうだ、好奇心に、突き動かされただけだ。
明華は、自分に、言い聞かせた、けれど。
次に口から飛び出した言葉は、
「……少し落ち着きなさいな。お茶を淹れてあげましょう、いかが?」
一体、この娘に、親切にしてあげる義理がどこにあるの!
明華の困惑には、まるで無頓着な睡蓮は、泣き止もうと努力しつつ、ありがとう、いただきます、と言って顔をあげ、明華へ、けなげに微笑を向けた。




