第二話
女ばかりの陽花楼 ―――――― 。
女将・房子は、経営の才には恵まれているが、その気質はあくまでも「明」だ。
そのため、銀月は彼女以外の誰かが「暗」の部分を負って、陽花楼の女たちすべてを支えねばならないと考えていた。
銀月は女性を弱い生き物だと思わないが。
大勢の男どもに腕力で来られた場合、およそ太刀打ちはできないだろう。
それに、腕力以外でも女を地獄に堕とす方法などいくらでもある。
例えば、阿片だ。
または、その道に長けた男に犯され続ければ、大抵のものは三日ほどで淫に溺れ、自我を失くす。
そして、その両方により地獄に堕とされた女など、この界隈には掃いて捨てるほどいる。
男が女に欲望を抱く生き物である以上、若い女に商品価値を求めるものはこれからも後を絶たないだろう。
李家の総領と周囲に認められはじめた十八才の頃。
銀月は自身が陽花楼の「暗」の部分を引き受けるつもりだった。
名づけ子「睡蓮」を守るために・・・・。
けれど、その地位を担うものは陽花楼の中にすでに育っていた。
絶世の美貌と褒めやされながら、双子の妹により、舞姫としての未来を摘み取られた 蓮姫が。
いや、摘みとられねば、彼女の本来の才能はけして開花しなかったろう。
最初は類いまれなる占術師として。
やがて、妓楼の主たちの相談役として。
けれど、占いや他人の悩みを多く聞けば、必然的に情報が集まることになる。
彼女の本来の才能とは占術師としてのそれでなく、集まった情報をうまく操作する術を持ち合わせていたことだろう。
結果、彼女は今、この街の裏の顔役だ。
足の悪い蓮姫は陽花楼の自室からあまり出ることはないが、それでもすべてをやってのける。
睡蓮どころか、房子にさえ知られることもなくだ。
もちろん、表の顔役は他に存在する。
けれど、彼だとて蓮姫の駒のひとつにすぎない。
璃安西に位置する花街をある意味、規律正しく ―――――― 。
悪党はうまい汁を吸っても吸いすぎず、妓たちは最後の尊厳までは冒されることなく。天秤をどちらにも偏らせることなく統治する。
口でいえば簡単なそれがいかに難しいことか、この花街に住むものなら子供だとて知っている。
表向き、占術師を名乗るならなおさらだ。
そういった事情を知る銀月は睡蓮が突拍子もないことを始めても、さして心配はしなかった。
裏事情を知らない高級妓女どもが陽花楼、もしくは睡蓮に事を起こそうとしても、主や女将が必死で止めるだろうから。
もちろん、彼らがこの花街で営業を続けていたいのならばだが。
その裏の顔役である蓮姫に声をかけられた時、銀月は内心どきりとした。彼女にさえ解決不可能なことが睡蓮の身に起こったのかと思ったからだ。
蓮姫の手招きで連れてこられた茶屋の二階。
茶屋は主に男女が密会をする場所だが。
案内をした店主が心得顔だったことから、蓮姫が密談によく使う場所なのかもしれない。
通された獣蝋のいやな臭いが鼻につく六畳ほどの小部屋は、すべてが古く汚かった。
甘やかされた大店の嫡子なら入ることすらためらうだろう。
けれど、銀月はまったく気にならない。
なぜなら、彼が母と共に育った部屋も似たようなものだったからだ。
蓮姫が足の悪い彼女のために用意された椅子の一つに座ると、銀月は卓子を挟んだ向い側に腰をおろした。
持て余すほど長い両脚を行儀悪く卓子の上に乗せながら。
「李銀月。
彗星のごとく現れた李家の嫡子・・・・」
女としては低い声がチャドルの中から聞こえる。
そこには何の抑揚もなく、事実を事実として言ったそんなふう。
「何が言いたい?」
銀月は卓子に乗せた足を大きな音を立てて組みかえると、蓮姫を上目遣いで睨みあげた。
「十五年間、隠されたその身に潜む闇はいかばかりに濃かろうと思ったのですよ」
蓮姫は意味ありげに笑うと、音もなくチャドルを脱ぎ捨て、双子の妹に鋏を突き立てられたという右頬を露わにした。
頬の傷のあまりのむごたらしさにはっとした銀月に、にやりと嗤って見せてから、卓子に置かれた銀月の足をばしんと払い落す。
よろけた銀月が眼光鋭く見つめ返しても、顔色一つ変えることがない。
―――――― なんたる矜持。
これが蓮姫をして、裏の顔役まで押し上げたものか。
彼女はもはやこの年で人が何を一番大事にすべきかを知っているのだ。
銀月は目の前の女が全力で対峙するべき相手と思い知らされないではいられなかった。
「蓮姫よ。おまえの目にわたしは、闇と見えるか?
同じ闇を見分けることはたやすいだろうからな」
「なるほど、おっしゃる通りでございますな。
けれど、万物は皆、日が当たれば影ができるのが常。
人もまたしかり。
その論からいえば、わたくしが裏の顔を持っていても至極当然のこと。そう、思われませんか、李銀月?」
蓮姫は銀月の名に特に力を込め。銀月が彼女の裏の顔を知っているように、自身も銀月の裏の顔を知っているといいたいのだろう。
「能書きはいい。
わたしに伝えたいことがあって出てきたのであろう?」
腰の重いおまえが・・・・。
と、言外に言葉を滲ませて銀月は言った。
「そう・・・・。
ところで、あなたさまは“陽花楼”、その名の意味を知っておいでか。
陽花楼の名は男どもに実母をむごたらしく殺された房子の『女たちよ。太陽に向かい咲き誇る花であれ』との願いを込めたもの。
けれど、その名の如く生きられるものは余りにも稀。
ただ一人、あなた様の名づけ子「睡蓮」を除いては・・・・」
「何が言いたい」
銀月は苛ついて、先ほどとまったく同じ言を繰り返した。
蓮姫の話が陽花楼の危機といったものでなく、ごく個人的な話と知れたからだ。
「あなた様は何故、あの場を逃げ出されてきたのか、ご自身でおわかりか?」
ついと柳眉が吊り上がる。
銀月は、聞かれたくないことと知りながらも、訊ねてくる女に殺意さえ覚えた。
だが、一瞬の後、はっとする。
睡蓮が茉莉花の古民謡を歌ったのは、この女の入れ知恵だと気付いたからだ。
よくよく考えてみれば、あの、無垢で人の裏側を見ることをしない睡蓮になんじょう小難しい駆け引きができようか。
「おまえは予想していたのだな。男どもがこぞって睡蓮に欲望を抱くことを。
それは一体どういった理由によってだ?」
返答いかんによっては女だとて許さないと、かっとなった銀月の怒りをかわすように、蓮姫は不意に立ち上がり、丸窓に映った月を指し示す。
「太陽はどこまでも太陽であるべき、そうおもいませんか?
睡蓮に出た札の意は死と再生。
そして、あなた様に出た札は「月」
その意味するところは迷いと不安。大いに悩むがよろしいでしょう」
そう言い終えたとたん、蓮姫は踵を返した。
とうてい、足の腱を切られたとは思えない優雅な立ち居振る舞いで。
蓮姫の背中をを憮然と見送った銀月は、彼女が指し示した下弦の月を振り返る。
けれど、深夜上がった月は朧。
其れにさえ自身の未熟を指摘されたように思えて、銀月は忸怩たる思いをこぶしに込め、卓子に叩きつけたのだった。
*****
『あなた様は何故、あの場を逃げ出されてきたのか、ご自身でおわかりか?』
蓮姫の女にしては低い声が銀月を断罪する。
あれから ―――――― 。
銀月は思い出せないほど幾日も、自室の椅子を温め続けていた。
腰まで届く長い髪を結うこともせず。
食事も取らず、眠ることもせず。
まるで、室の調度になったかのごとく身動きもせず。
ただ、ただ、考え続けていた。
やがて、彼の目は落ちくぼみ、頬はげっそりこけてきたが、銀月は少しも気にならなかった。
母が天に召された十五才の頃。
元服を終えた銀月の私室は東棟の日当りのいい場所に変えられた。
部屋の片隅では今だかつて見たこともないほど、炭櫃がかっかと燃えている。
常なら寒さなど、感じるはずもない。
けれど、銀月は先ほどから凍えるほど寒くて堪らなかった。
実際、がたがたと震え、自身の身体をかき抱いたほどだ。
『銀月。ほら、いらっしゃい』
何故なら、その懐で銀月を温めてくれる存在を失くしてしまったからだ。
けれど、つと思い出す。
銀月の手にこわごわと触れ、自身の名を優しく呼んでくれた少女を。
刹那、暖かいものが心に溢れだしてくる。
彼女のために生きよう ―――――― 。
生家でたったひとり、孤独に苛まれようとも。
すべてが銀月の敵にまわろうとも。
そして、父・水月から一瞥すらされなくても。
母を亡くしたあの日。
睡蓮と名付けた少女に出会わなければ、銀月はロプノール湖で水死体となっていたのだから。
睡蓮が銀月に寄せてくれる想いをいつしか、恋だと気づいていた。
それを嬉しいと、珠玉のようだと思いながら。
同じものを返すことはできなかった。
同じ想いを返すには、銀月はあまりにも己を知りすぎていた。
自分はいまだかつて、人を恋うたことがない。だが、たったひとりを定めた時、そのひとりに激しく執着する。
そして、縛り付けてしまうだろう。
それこそ、がんじがらめに。
彼女が自身の他は誰も見ないように部屋の奥に閉じ込め。その結果、魂の輝きを失わせてしまう。
似ているのだ、自分は・・・・。
実母でなく、父の妾・明華に。
明華の半生を見れば、過ぎた執着が身を滅ぼすことは容易に推察できる。
睡蓮を縛りつけて、あの輝きを永久に失わせるくらいなら、永遠に兄のままでいよう。
そう決心したのはいつの日だったか。
けれど、愛している。
愛している、睡蓮を。
彼女を薄汚い欲望の対象にした男どもをすべて殴り殺したいほどに。
ああ。わかっているとも、蓮姫。
わたしはとうにあれに溺れているよ。
わざわざ指摘してくれる必要などないのだ。
わたしが臆病なことくらい、自分が一番よく知っている。
おまえはこんなわたしの気持ちを知りぬいて、『太陽はどこまでも太陽であるべき、そうおもいませんか?』といったのだろう?
睡蓮を太陽のまま、輝かせることができないなら、おまえは彼女に手を出すべきではないと。そこで、彼女が他の男のものになるのを、指をくわえて見ているがいい、と言外に言い捨てていったのだろう?
ああ、睡蓮。わたしはきみを太陽のままでおいておくことができるだろうか?
何度も、何度も銀月は純白の胡服を纏い、『茉莉花』を口ずさむ睡蓮に問いかけた。
けれど、空想の中の睡蓮はどこの誰とも知れぬ男に腕を引かれていき、「銀月・・・・!」と自身の名を呼び、泣き叫ぶ。
男の腕の中で、音をたてて破られていく白いチマ・チョゴリ。
睡蓮は『いやっ!』と、大きく首を振り、紫の両目から大粒の涙を吹き零す。
銀月が睡蓮と名づけるゆえとなった美しい瞳から。
「やめろっ・・・・!」
銀月は自身の出した大声にはっとして、顔をあげた。
ほんの少しの空想の中ですら許せない。
彼女が他の男に蹂躙されることが。
もし、同じように睡蓮が泣くのなら、自分の腕の中で・・・・。
睡蓮が恋うるのが銀月だというなら、彼女はけして後悔はしないはずだ。
あれはそんなに弱い娘ではないのだから。
母・月梅のごとく、銀月という汚れた泥の中でも、見事な花を咲かせてくれるだろう。
銀月は幾日かぶりに椅子から立ち上がると、大きな声で端女を呼んだ。簡単な食事と、湯浴みの用意を命じるために。
銀月は生まれて初めて、父・水月を訪なうことを決意したのだった。
睡蓮という、太陽に向かって咲く花を手に入れるために。




