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誓言 ~砂漠を渡る太陽は銀の月と憩う~  作者: 中山佳映&宝來りょう
シーズンⅣ(りょう担当)
20/66

第三話

「ほら、明華。手を出して」


 水月は砂に足を取られ、何度も転びそうになる明華に手を差し出した。

 明華はふふと笑って、水月の手を握り締めてくる。

 ふたりはしばし、お互いの顔を見つめあい、にっこりと微笑んだ。

 若い恋人達は「西の善きテングリ」「東の悪しきテングリ」の祠を目指していたのだ。

 永遠(とわ)の愛を誓うために ―――――― 。

 


 李水月、一六才。

 成明華、一四才。

 幼染みであるふたりは、同時に乳兄妹でもあった。

 なぜなら、明華の母が水月の乳母だったからだ。

 水月は璃安一の貿易商の嫡子。

 常ならば、乳母子の明華とは身分違い。口を聞くことすら許されないが。明華の母が李家の親せき筋だったため、二人は幼いころから実の兄妹のように育てられた。

 

 広大なタクラマカン砂漠に日が落ち。

 夕日が砂と結い始めたばかりの明華の髪を朱色に染めあげていく。

 水月はそんな明華を口をぽかんとあけて見つめてしまう。

 なんて綺麗なんだろうと思いながら ―――――― 。

 幼い頃から、明華はとても可愛い女の子だった。

 けれど、大人の女性と認められ、髪を結うようになった頃から、彼女はますます美しくなった。 

 若い郎党や、下働きの男どもが呆けたように見つめる先には必ずといっていいほど明華がいて。水月はそんな場面に出くわす度、落ち着かない気持ちに襲われるのだった。

 

 砂なつめの花が甘く香る晩春の宵。

 明華の面影が目交から離れず、鬱々としていた水月は自室から庭園へすべりでた。

 砂なつめ、リラに柘榴、花水木・・・・。

 木に咲く花が好きだという父の意向で、一年草は少ないが。それでも、月光に映える春の庭は溜息が出るほどに美しい。

 けれど、百花繚乱といった態の花々を見ても、水月の心は少しも弾まない。

 それどころか、どの花を見ても、「明華のほうがずっと美しい」との考えに至ってしまう。

 

(ああ。この胸のかきむしられるような想いは一体、どこから来るんだろう)

 

 水月は胸の痛みを抱えたまま、仕方なく自室に戻ろうとした。

 けれど、その時 ―――――― 。

 つくばいの影から明華のくすくす笑う声が聞こえた。

 どうやら、父の従者のひとりが彼女に見ぶり手振りを交えて、面白い話でもしているらしい。


 一瞬にして水月の頭に血が上る。

 それがなんのゆえかは知らぬまま、水月は木立を抜け、二人の間に割って入っていた。

 唇を真一文字に結び、明華は我がものだとでも言うように、彼女の肩を強く抱き寄せて。

 若い従者は、普段穏やかな李家の嫡子のただならぬ様子に顔色を変え、一目散に逃げて行った。

 

「どうしたっていうの、水月?」


 明華の顔に訝しげな表情が浮かぶ。

 水月はもう、自身の気持ちをこれ以上、誤魔化すことができなくなっていた。

 いや、おそらくこの時初めて、己の奥底に潜んでいた恋心に気付いたのかもしれない。  

 水月はからからに乾いてしまった喉を湿らすために何度も唾を飲み込むと、一息に言葉を紡いだ。


「僕はきみが好きなんだ!

 きみは僕のことをどうおもってるの?」


 水月は激情のまま、明華を引きよせて強く抱きしめる。

 

(なんて、小さな肩なんだ。

 それに、香妃(*1)みたいに、砂なつめの香りがする)


 自身の腕の中で、小さく震える明華は、いつの間にか水月にとって守るべき存在に変わっていた。

 先まで、二つ下なくせに、おませな明華は水月をひっぱりまわしていたものなのに。 

 いつのまに彼女はこんなに小さく華奢になってしまったんだろう。

 いや、もちろん、水月が大きくなっただけなのだけれど。

 

 しばらく、明華からの返事を待っていた水月だが、いつまでもたっても返事は返らない。

 水月は痺れを切らし、「僕を嫌いなの?」と訊ねようと顔をあげて、初めて明華が啜り泣いていることを知る。


「そんなに泣くほど、僕のことが嫌い?」


 思わずそう、訊ねて。

 我ながら馬鹿なことを言っていると思った水月の胸の中で、声をあげて笑う声がする。


「ばかね、水月。そんなことあるわけないじゃない。

 嬉しかったのよ、わからないの?  ほんとに鈍いんだから」

 

 いつもと変わらない明華の声に安心しながらも。

 水月は素っ頓狂な声をあげていた。


「う、うれしいって、うれしいって。

 それはきみも僕のことを好きだっていうこと!?」


「本当におばかさんね、水月は。

 それ以外に何があるっていうの?」


 明華はほとほと呆れた風に言って。

 けれど、次の瞬間。美しい眉間を突然、曇らせる。 


「水月。でも、あたし・・・・ 」


 明華はそういい淀むと、また俯いた。

 彼女の大きな瞳から一旦止まったかに見えた涙がぼたぼたと音をたてて地面に吸い込まれていき ―――――― 。

 水月は明華のいきなりの変化に慌てふためいた。


「どうしたの!?」


「だって、あたしは乳母の子だもん。水月のお嫁さんになんかなれない!」


「なんだ、そんなこと。

 媽々(マーマ*2)は、いや、きみのお母さんは父上の従姉妹だもん。誰も僕たちのこと、反対しないだろう?」


「でも・・・・」


 明華はなおも不安が去らないと言ったげに、足もとの小石を蹴っている。

 水月は心の中で大きく溜息をついた。

 何故、女という生き物はまだ起こってもいないことを心配できるのか。

 自分が今、明華を好きで、明華も水月が好き。それでいいではないか。そう思うのは男の身勝手なのか。

 けれど、この時の水月は明華が自分を好きだと言ってくれたことに有頂天になっていた。


 だから・・・・。

 ついうっかりと、人の心が移ろいゆくものだと少しも考えずに。

 

「誓うよ、きみを、明華をお嫁にすると。

 そして、一生きみだけを愛すると誓うよ!」


 口に出していた。

 自身が後になって、その言葉を何万回も後悔すると、考えないまま。

 そして、それを空しくするのが自分だとこれっぽっちも考えぬまま。

 

 それから、一週間後。 

 ふたりはテングリの祠で、永久(とこしえ)の愛を誓い合ったのだった。 

 タリム川がロプノール湖へ注ぐあたり。

 たどり着いた祠で、明華が無邪気な声で訊ねてくる。


「ねぇ、水月。

 なぜ、“西の善きテングリ”様は怖い顔をなさっていて、“東の悪しきテングリ”様は笑った顔をなさっているのかしら?」


「僕にはわからないよ、明華」


 そう、十六才の水月にはわからなかった。

 人が悪に至ることはた易いが、正や善きことは人に多大な要求をする。

 それゆえ、西の善きテングリは『わたしに至る道は長く険しい』と教えているのだということを・・・・。

 そして、もうひとつ。

 幸福の後に、必ず不幸が待っているように。愛とは憎しみと表裏一体。愛すれば愛するほど、相手への執着は強くなり。その執着は相手だけでなく、自身さえもがんじがらめに縛りつけるものだということを・・・・。

 けれど、水月がテングリの示唆に気付いた時、すべてが遅きに過ぎていた。

 

*              *


「ねぇ、水月。わたし、子供が出来たみたいなの」


 明華からそう、訊かされた夜だった。

 商売の旅に出ていた水月の父が急死したと知らせが来たのは。

 全世界ががらがらと音をたてて、自身に向かって落ち来る心地がする。

 水月は一晩中、がたがたと震えが止まらなかった

 

 当時、水月は十八才。

 李家の当主としても、父の事業をすべて引き継ぐにしてもあまりにも若すぎた。

 滅多に顔を合わせることのなかった父の死を嘆き悲しむより、自分の明日がまず気にかかった。

 生き馬の目を抜くがごとき苛烈な貿易商という事業を引き継ぎ、隙あらば本家当主の座を狙ってくる 分家連中から自身と家とを守っていくことなど、若干十八才の水月にできるものなのか。

 いや、おそらくできはしないだろう。

 けれど、出来ないと小さく縮こまることなど、自らに許せるはずもない。それを許すには水月の矜持はあまりにも高すぎた。


『葦でできた小舟で、大海に漕ぎだす』


 当時の心境を振り返ると、そんなものではなかったのかと思う。

 たったひとつ。自身が自身であるべき所以(ゆえん)

 “李水月“であるという誇りだけを武器に水月は並いる敵と戦い続けた。

 生まれてくる子供のことどころか、明華に正式な地位を与えるといったことすら考えられずに。明華が李家の内政を見てくれることに甘え、水月は当主としての役目に、商いに没頭しつづけた。

 それでも、亡くなった父には遠く及ばない。

 どんなに寝る間を惜しんで、学び働いても、李家の事業は日々後退していく。水月は自身の未熟さにほぞを噛む思いだった。


 そして、水月が李家当主に就いてから、二年がすぎ。

 李家の事業はにっちもさっちもいかないところまで、追い詰められていた。このままでは一家離散も止むを得ないほどに。

 そんなときだった、水月に縁談が起こったのは。


 相手は県正の姪。

 縁談を持ち込んだ水月のたった一人の味方である叔父は、

「あまり身体の丈夫な娘ではないらしいが、娘についてくる持参金は莫大だぞ」といってよこした。

 確かに、今の水月にとって、県正の姪のもたらす持参金は喉から手が出るほどに欲しいものだった。

 かほどの大金があれば、李家を再興して余りある。

 その考えにたどり着いた水月は県正の姪との縁談にいちもにもなく飛びついた。

 例え、李家の太々の座を金で(あがな)われたと陰口をたたかれようともだ。

 

 だが、そんな水月にも一つ心配事があった。明華のことだ。

 明華はおそらく、己ではない正妻を迎えることに、渋い顔をするだろう。

 だが、利発な彼女はすぐにわかってくれるはずだ。この方法以外、水月と李家を救う道はないのだということを。

 それに、実質、李家の太々は彼女なのだし、迎える県正の姪は床の間に飾った壺のごとく、大事に奉っておけばいい。

 

 けれど、明華の反応は水月の予想を遙かに超えたものだった。

 いや、まったく予想していなかったものだったと言っていい。 


「絶対にいやです。

 あなたはわたしを日蔭者にしようというの?

 それに、水月。あなたはテングリに誓ったわ。わたしを正妻にして、わたしだけを一生愛すると。

 あの言葉は嘘だったというの。あの場限りの偽りだったというの」


 さんざん泣かれて罵倒されて。水月はほとほと途方に暮れてしまった。

 自分が愛しているのはきみだけなのだと、県正の姪はお飾りにしておくつもりなのだと、どんなに口を酸っぱくして説いても、明華は首を縦に振らない。

 何故、彼女はわからないのだろう。

 今の状態では李家の再興が危ういどころか、水月も明華も家を失い、明日の食にも困ってしまうというのに。

 たとえ、県正の姪を娶っても、彼女の立場を少しも変えるつもりはない。

 明華は“太々”という名で呼ばれることこそないが、水月も使用人も彼女をこの家の女主人と認めている。しかも、自分たちの間には“麗華(リョンファ)”という娘までいるではないか。

 

 けれど、(かぶり)を振って明華は言う。

 あなたと麗華さえいれば、こんなご大層な家などいらないのだと。例え、街のはずれのあばら家であっても。あなたを夫と呼び、あなたから唯一の妻と呼ばれたいのだと。

 だから、水月。わたし以外の女を妻に迎えないで頂戴と。


 けれど、水月には明華の言い分が少しもわからなかった。

 十五やそこいらの小娘の存在を容認するだけで、今までと変わりない生活ができ、水月自身も負け犬と罵られずにすむ。

 大体、水月は街のはずれのあばら家に住むなどまっぴらだった。

 自分は腐っても李水月。

 璃安一の貿易商の嫡子が街のはずれで、物乞いの真似などできようか。

 思い余った水月が明華にそう告げると、彼女は声をたてて笑いだした。

 

「そうね、水月。あなたは男で、わたしは女だもの、理解しあえるはずなんかないわね。

 あなたたち男は、くだらない矜持ばかりを口にする。

 けれど、その矜持はけして人を幸せになんかしないのよ。

 そしてね。それに気づいた時は大概、遅すぎるの」


 彼女はそう言い放つと、襦裙(じゅくん)の裾を翻し、室を出て行った。


「水月。あなたの好きにすればいいわ」


 と、捨てぜりふを残して。

 水月はそんな明華を黙って見送るしかなかった。


 けれど、彼女はそれ以来、すっかり人が変わってしまった。

 聡明で美しいという点は少しも変わらなかったが、人に対する情というものを失くしてしまったかのように見える。

 特に使用人の扱いはひどいものだった。

 ほんの微々たる間違いも許さない。気に食わない下女や下男などはどんどん首を切る。 彼らにも生活があるのだと少しも考えていないように。

 よく出くわしたものだ、明華が使用人を口汚く罵り、鞭をくれているところへ。

 

 そして、一番苛烈を極めたのは水月の正妻として嫁いできた県正の姪・劉月梅に対してだった。

 家柄のいい月梅を日の当たらない北の棟に押し込め、日に二度の食事を運ぶ以外、使用人にすら彼女に近寄るのを禁じた。水月などはいわんやである。

 まだほんの十五の、親に言われるままに嫁いできた彼女になんの咎があろうか。

 けれど、水月は表だって庇ってやることができなかった。

 一度、月梅を庇ったところ、明華はその翌日から三日間、彼女に食事を運ばせるのすら止めさせてしまったからだ。

 明華は今や、李家の使用人に恐怖政治を敷いていた。誰もが彼女の顔色を伺い、こびへつらおうとする。

 そんな状況を望ましいとは思わなかったが、水月は傾いた商売を元通りにするのに忙しく、李家の内政にまで気を配る余裕がなかった。

 

 だが、そんな折、月梅が男子を産んだ。

 当時、水月はカジュガルに香木の取引に出掛けていたのだと思う。

 帰宅して、家司に事の次第を聞かされた水月は耳を疑った。明華は嫡子を産んだ月梅に食事を与えていないのだという。

 しかも、それは一月も前のことなのだと。

 驚いた水月はすぐに月梅の室に赴いた。

 だが、彼女はちゃんと生きていた。

 元来、細い身体がなお細くなり、顔色も透き通るばかりだったが、水月を見ると、心から嬉しそうに笑った。


「お帰りなさいませ、旦那さま。

 見てやってくださいませ。この子が銀月ですわ。

 あなた様とわたくしの名を取って、銀月と名付けましたの」

 

 水月はそんな月梅を銀月ごと抱きしめた。いや、抱きしめずにはいられなかったのだ。

 彼女は望んで、水月に嫁いで来たわけではない。

 それなのに、持参金さえもらえば後は不要とばかりに、こんな北向きの棟に押し込めた自分を少しも恨んでいないというのか。

 あまつさえ、彼女の瞳には水月を慕う色がある。

 彼女の瞳は告げていた。愛するあなたの子だから、銀月と名付けたのだと。

 そんな無垢で純真な愛情を与えられ、彼女を愛し返さないなど水月にはできなかった。自分だとて人間だ。赤い血が流れてもいれば、人を愛しむ心もある。

 

「ああ、月梅、済まなかった」

 

 水月は心から悔恨の涙を流した。

 と同時に、己の妻として初めて月梅を愛おしく思えた。汚泥に咲く一輪の(はちす)といった態の彼女が・・・・。

 だが、表だって月梅を庇えば、彼女の立場はますます悪化の一途をたどる。すべての使用人は明華に従っているのだから。

 水月はこの一月、月梅が自身の装身具を売り払って糊口を凌いだように、表向きそうと見せかけながら、月梅を援助することにした。

 それに加えて、月梅を警護するものも付けた。

 自分は旅に出ていることが多く、それと知った時にすべてが終わっているかもしれないからだ。

 

 けれど、女というものは本当に勘の鋭いものだ。

 水月が月梅に心を移したと気づいたのだろう。明華の月梅に対する態度は悪化の一途を辿っていった。

 もちろん、水月が明華を愛さなくなったわけではない。 だが、明華の傍らでは少しも安らげないのだ。

 それに比べ、月梅のそばでは心の澱が取れていく心地がする。

 月梅は水月をただ一人の夫として慕い、稀にしか訪ねないというのにいつでも笑顔で迎えてくれる。

 しかも、月梅は思いやり深く、水月の商売上での立場も完全とは言えないまでも理解しようとする。

 この世のどんな男だとて、自身に隔てを置き続ける明華より、月梅を愛してしまうだろう。

 

 そして、水月も血の通った男。そんなことが何年にも渡れば、気持ちは自然と月梅に傾いていく。

 テングリの祠で明華に愛を誓った時、小指の先ほども彼女以外の女に目をくれてなどいなかったのに。

 いつからこんなにすれ違ってしまったのだろう。

 いや、明華ではない女を正妻に迎えると決めた時からなのだが。

 水月には未だにわからなかった。明華が何故、あれほど正妻の座に拘ったのかが。

 もし、彼女があのままでいてくれたなら、自分はけして他の女に心を移したりはしなかったろうに。


 水月は何度か、その理由を明華に訊ねようとした。

 けれど、明華は水月と寝屋はともにしても、他の肝心のことは話そうとしない。

 あの瞬間から、明華を形作っていた温かい部分が突然冷めてしまい、水月に対しての恐ろしいまでの執着だけが残ったような心地がする。

 それは二人の人間を飢え死にさせても構わないと思うほどの執着なのだ。

 もちろん、明華だとて、飢え死にしそうになれば月梅が実家に帰るだろうと算段してのことではあろうが。

 それにしても背筋が寒くなる。それほどの執着を向けられることにでなく、愛情だけがすっぽり抜けてしまったことが。


 水月は思う。

 明華にとってあのテングリの祠での誓いはそれほどの重みを持っていたのかと。

 だからと言って、何度繰り返そうと水月は同じ運命を選び取るだろう。男は女と違い、愛だけに生きられぬだから。

 もう水月はそれを明華に分かってもらおうとは思わない。

 自身が不惑を超えた今、何もかもが遅きに過ぎた気がするからだ。


 水月はあの、明華を想って眠れなかった晩と同じように、亡き父が好んだ青龍の庭に立って、砂なつめの樹を見上げた。

 初夏の今、白に赤色の交る花も咲いてなければ、甘い匂いも漂ってはこない。

 けれど、水月の心はあの日とおんなじほどに痛んでいた。

 一身に自分を愛してくれた月梅を亡くしてから、仕事にのみ打ちこみ、父の時代よりさらに事業も拡大したが、大事なものを置き去りにしてきた心地がする。


 例えば、嫡子の銀月だ。

 銀月は今でも恐ろしいほど己を憎んでいるだろう。おそらく、明華を憎むのと同じほどに。

 彼にとって水月は母を殺した仇なのだ。

 月梅が労咳で弱っていくの知りながら、水月は何もできなかったのだから、表立っては・・・・。

 水月が真実、月梅を愛したことを銀月は知らない。

 もちろん、誰にも知られぬように振舞ったのだから、仕方ないことだが。

 だが、銀月の元服の晩。

 水月は銀月の眼差しから、背筋が凍りつくほど我が子から憎まれていることを悟ったのだ。


 刹那、水月の頬を生暖かい風が通りすぎる。

 未だ夏は始まったばかり。

 砂なつめの果実はまだ青く硬い。熟すにはまだ時間がいるだろう。

 だが、水月は四十半ば。人生が五十年としたら、もう終焉に近い。

 銀月の心が熟すのを待っている時間が果たして残っているのだろうか。

 水月は砂なつめのまだ青い実を毟るとると、かしりと音をたてて齧った。

 案の定、まだ若い実は硬く、舌がしびれるほどに酸っぱい。

 まるで、今の銀月の心と同じほどに・・・・。 

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