第57話 「一万二千年の憎しみを越えて真の契約、開戦の号砲」
三月中旬――。
黒海から吹きつける冷たい風が、クリミア東部の荒野を駆け抜けていた。
灰色の空。
砕けた市街地。
雪解け水が流れる大地の先には、十重二十重の塹壕と魔導障壁の防衛線。
そこは、世界の運命を左右する最前線だった。
防衛線の中央には、連合王国第一王子アーサー率いる新政権軍。
その両翼には、ロシア武闘派が誇る魔導機甲部隊。
魔導紋様が刻まれた戦車の後方、数百門の魔導砲が静かに照準を合わせる。
さらに上空では――
妖精アジーから強制徴収した精霊魔法陣が迎撃陣形を維持していた。
力による秩序。
支配による平和。
一万二〇〇〇年前の思想を、そのまま現代へ持ち込んだ軍勢だった。
一方。
数十キロ離れた場所では、もう一つの軍勢が静かに集結していた。
日本。
米国。
欧州穏健派、反アーサー派。
ローマ十字軍。
そして、戦火を止めるために集った各国の契約者たち。
国籍も、文化も、信仰も違う。
だが、その視線だけは同じ方向を向いていた。
誰一人として、この戦争を望んではいない。
だからこそ、ここで終わらせる。
その決意だけが、この軍勢を一つにしていた。
日本側前線。
俺は静かに前方を見据えていた。
隣にはレイナ、龍之介。
少し離れた位置には御園生さんが立ち、各国との通信を確認している。
そして肩の上では、サラが遠くを見つめていた。
「……すごい魔力」
小さく呟く。
「向こうも、本気だね」
「ああ」
俺も短く答える。
まるで世界中の魔力が、このクリミアへ集まっているようだった。
その時だった。
「待たせたね」
振り返る。
そこには、先行任務を終えた北米CAGの制服に身を包んだノア。
北米側の陣地では、ライフルを整備するノアの肩でレヴィが軽く伸びをしていた。
「今度こそ遅刻してないだろ?」
「十分間に合ってます。今回は助けられる前に来てもらえて助かりました」
「前回はヒヤヒヤしたからな」
そう言って肩をすくめるノア。
「今度こそ、終わらせようね」
レヴィがそう呟くと、ノアは静かに頷く。
「ああ。これ以上、誰も泣かせない」
さらにその隣へ、一人の少女が歩み寄る。
黒い外套を羽織る劉美月。
その肩には、朱紫の妖精――バアル。
かつての禍々しい魔力は消え、代わりにどこか静かな気配が漂っていた。
バアルはしばらく黙ったまま、荒野の彼方を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……私は、一万二〇〇〇年の間、人を憎み続けた」
誰も口を挟まない。
「奪われ、裏切られ、守れなかった全てを、人という存在のせいにしてきた」
「人が滅びれば、この悲しみも終わると思っていた」
黒い瞳が、ゆっくりと俺たちを見る。
「だが、お前たちは違った。憎む理由はいくらでもあったはずだ」
「それでも、お前たちは誰一人、私を切り捨てなかった」
サラが優しく微笑む。
「だって、あなたも苦しかっただけでしょう?」
その一言に、バアルは目を閉じ、小さく笑った。
「……敵わないな、女王様。ならば、最後くらい未来のために戦おう」
傲慢さを捨てたバアルは、一万二千年前の臣下のようにサラへ深く頭を垂れる。
その絶対的な主従の美しさに、周囲の自衛官たちが息を呑むのが分かった。
メイユも力強く頷く。
「うん。今度は、私の意思で」
二人の魔力が重なり、明るい朱を帯びていく。
その光に、レヴィが嬉しそうに笑った。
「やっと、本当の契約になったね」
周囲が神獣の如きオーラに息を呑む中、
「綺麗だし強そうだな。改めてよろしく、バアル」
俺は気楽に右手を差し出した。
バアルは呆気に取られたように目を瞬かせ、
「……やはり調子が狂う男だな」と苦笑いしてその手を重ねてくる。
スサノオも静かに頷いた。
「心が重なれば、魔力も変わる」
その瞬間、御園生が手元の端末を見て絶句した。
「天城君、メーティスがオーバーフローしてる! 」
「バアルの出力、さっきの三倍だってよ!?」
「……へ?」
俺が呆然とする中、
ノアが愉快そうに口角を上げた。
「すっごいね!開戦前からとんでもない切り札覚醒しちゃった?」
敵だった妖精も、契約者も、今は同じ未来を向いている。それだけで十分だった。
その時、メーティスの無機質な音声が全員の耳へ届く。
【通達:全隊】
【報告:敵、前衛。進軍開始】
【推定:接敵まで二十分】
静寂が終わる。
遠く、敵陣営の上空。
金糸雀色と漆黒の巨大な魔法陣がゆっくりと展開され始める。
アーサーが、ついに動き出したのだ。
大気を揺るがすような警報が、戦場全域へ響き渡る。
俺たちは互いに頷き合った。
もう、迷いはない。
バアルが静かに前を見据えた。
「“あの時”守れなかった世界を、今度こそ守ろう」
黒海から吹き抜ける風が、戦場を駆け抜けた。
憎み合った長い歴史に、終止符を打つ戦いが今始まる。
――続く。
次話、「二つの秩序。決戦の地、クリミア」
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