第26話 「始まりと終わりの都、ヒラニプラにて」
……風が吹いている。
ゆっくりと目を開ける。
頬を撫でる風。
鼻をくすぐる草の匂い。
だが、心は冷え切ったままだった。
あの地下牢での、イブリスの言葉。
――お前が世界の絶望になった。
胸を焦がすような、激しい呵責。
俺の魂は、まだ暗闇の中にいた。
「……ここは」
掠れた声が漏れる。
病室の白い天井はない。
消毒液の匂いもない。
代わりに広がっていたのは、緑の草原だった。
これが“夢”だろうか。
いや、夢にしてはリアルすぎる。
その瞬間、――肉体に異変が起きた。
熱い。
右腕の奥が、沸騰するように熱い。
皮膚の下一面に、古代文字が浮かび上がる。
それは漆黒の光を放ち、激しく明滅した。
現代魔法の神とも云える《メーティス》はない。
魔法演算のサポートも、一切ない。
空気中の濃密な魔力を、勝手に吸い上げる感覚。
シュッ、ボッ……!
意思とは関係なく、掌から漆黒の星焔が吹き出した。
空間が歪むほどの、圧倒的な出力。
(なんだこれ……制御が効かない……)
システムが介在しない世界。
俺の“それ”が、リミッターなしで暴走を始めていた。
湧き上がる黒い光を、無理やり押さえつける。
俺はよろめきながら、立ち上がった。
視線の先。地平線の近く。
そこに、巨大な都市がそびえ立っていた。
「……は?」
思わず息を呑む。
大自然の真ん中に、近代的な超高度都市がある。
ガラスと金属。滑らかな白い外壁。
東京の新宿を思わせる、高層建築の群れ。
だが違った。
人工物なのに、生命のような脈動を感じる。
さらにその奥には、富士山に似た山が見えた。
あの山を見た瞬間、胸の奥が激しくざわつく。
本能が、近づくなと警鐘を鳴らしていた。
都市の門を潜る直前。
悠真の右腕がさらに激しく明滅し、指先から黒い火花が散った。
バチリ、と空気が焦げる音。
まるで、世界の物理法則そのものを食い破るかのような感覚。
この世界の魔力は、俺の星焔を「許容」していない。
なのに、俺の身体がそれを「拒絶」して、勝手に侵食していく。
(なんだよこれ……俺の存在そのものが、この世界のバグなのか?)
掌を握り直す。
そこには、俺にしか扱えない“特別のなにか”が荒れ狂う嵐のように脈動していた。
俺は、その熱を抱えたまま、都市の敷居を跨いだ。
行き交う人々の笑い声。
立ち並ぶ店。広告サイン。
風景そのものは、俺たちの知る日常に似ていた。
だが、決定的な違和感があった。
看板の文字が、どれ一つとして読めない。
未知の言語。
なのに、頭の中に意味だけが翻訳されていく。
『中央市場』『総合病院』。
そして、都市の巨大な門に刻まれた名前――。
「ヒラ……ニプラ」
その名前を口にした瞬間、心臓が激しく跳ね上がった。
知らない街のはずだ。
なのに、涙が出そうになるほど懐かしい。
身体だけが覚えている、奇妙な感覚。
死にかけていた心が、強制的に脈動を再開していく。
その時だった。
「ちょっと待ってよー!」
聞き慣れた、だけど少しだけ大人びた声。
ハッとして振り返る。
人混みを駆け抜けてくる、一人の少女がいた。
鮮やかに揺れる、翡翠色の長い髪。
淡褐色の瞳。
身長は百五十センチほど。
年齢は俺と同じ、十六歳前後。
羽はない。妖精の姿でもない。
普通の、人間の姿をした少女。
「ごめんごめん! 寝坊しちゃった!」
友人に手を振りながら笑う、その表情。
間違いなかった。
少女の姿を見た瞬間、俺の胸の奥で何かが弾けた。
凍り付いたままの、俺の心が。
痛みと共に、無理やり引き剥がされる。
「……サラ?」
彼女を呼ぶその声は、泣き出しそうなくらい震えていた。
死んでいたはずの心が、彼女を認識した瞬間に再起動する。
まるで、暗闇の底で止まっていた時計の針が、強引に回されたかのように。
「そんな……はずないだろ」
妖精として生きていたサラが、人間として笑っている。
その矛盾が。
絶望に支配されていた俺の心を、強引に現実へと引きずり戻していく。
その時、少女が不意に足を止めた。
「……え?」
ゆっくりと、こちらを振り返る。
俺と、真っ直ぐに目が合った。
その瞳が、驚きで大きく見開かれる。
無言のまま、狂おしいほどの喜びをその目に浮かべて。
少女は一歩、また一歩と、こちらへ歩み寄ってくる。
信じられない奇跡を目撃したような、潤んだ瞳。
まさか、見えているのか。
これはただの記憶の映像ではないのか。
少女は俺の目の前で立ち止まると、弾むような笑顔で両手を伸ばした。
「悠真! 来てくれたんだね!」
その声を聞いた瞬間、俺の背筋に猛烈な悪寒が走る。
(なぜ、俺の名前を知っている……?)
ここは、ただの『記憶』じゃないのか。
あるいは──俺自身が、この世界に組み込まれているのか。
少女のライトブラウンの瞳。
その奥に、いつものサラのものとは違う、
もっと深い「何か」が光っているような気がした。
だが、その瞳に見つめられると。
すべての疑念は、融解していく。
ただ、狂おしいほどの懐かしさが、俺を支配する。
──胸の奥にこびりついた、あの冷たい暗闇を。
今はただ、忘れてしまいたかった。
――続く。
次話、「継承者」
<この幸福な世界は、なぜ『絶望』に変わったのか──>
※本作はカクヨム様と同時投稿を行っております。




