【葵】1
「宮里さん、こっちの計算出来たー?」
漁協の事務所の中で、カウンターから若い男性の声が響く。
「あ、はーい、とっくに出来てますよ。沼田さん」
葵は、席を立って、笑いながら数枚の紙を沼田に持っていく。
「ねぇねぇ、宮里さん、今度さ…」
沼田が、にこにこしながら言うが
「お断りしますね」
葵は、笑顔で言う。
「えぇ!!一回くらいデートしてくれたっていいじゃないか?」
沼田が、不満げに言うが
「他の女の子を当たってください」
葵は、笑顔で答えた。
そして、席に戻ってから、電卓を叩いて計算を始める。
「でも、祐花ちゃんにも父親が必要じゃない?」
沼田の一言に、葵の手が止まる。
「俺だったら、こんなキレイな女性と可愛い子供、放っておかないけどな」
沼田の何気に言う。
葵は、笑顔を作り
「そんな事…ないですよ」
と、再び手を動かす。
「沼田君、毎日大変よね」
パートの山崎さんが声をかける。
「おばちゃん…なぁ、祐花ちゃんの父親って聞いてる?」
「さぁ?でも、一回、飲み会の席で…『とても優しくて、素敵な人』だって幸せそうに言っていたわね」
「…ふうん」
「さ、沼田君も早く仕事に戻りなさい!!」
「ほーい」
沼田が事務所から出て行くと、山崎さんは葵に近づいて
「ねぇ、葵さん」
と、声をかける。
「何ですか?」
「沼田君の言う事にも一理あるの思うよ。祐花ちゃんには、父親が…」
「その話はいいんです。祐花の父親は…もういませんから」
と、寂しげに笑った。
「だからこそ、新しい父親が必要じゃないのかね?」
山崎さんの言葉に、葵は首を横に振り
「いいえ、必要ないんです」
と、キッパリと言った。
「…そうかい?」
そう言って山崎さんは、席に戻る。
この海辺の町に引っ越してきたのは4年前だった。
葵は、要と別れた後、啓司と話をして、日高の姓から外してもらうように頼んだ。
迷惑をかけたくなかったから。
そして、晧祐の遺産をすべて放棄すると。
だが、啓司は、それだけは認められない、と言い
とりあえず、生活費と出産費用、それに養育費を賄うという事で折り合いをつけた。
啓司は、お腹の子供が晧祐の子供ではない事に気付いていたようだ。
「晧祐が診察を受けた医者は、私の友人なのだよ」
啓司は、寂しく笑った。
「友人から告知を受けてね、雅代さんに話そうか迷っていたが、出来なかった。晧祐が隠そうとしているのなら、そのままにしておこうとね。でも…」
啓司は、そこで言葉を詰まらせる。
「葵さん、あなたを苦しませてしまった事、本当にお詫びいたします。これからは、どうなさるつもりで?やはり…そのこの父親と…」
葵は首を横に振る。
「いいえ、私は、この子と二人で生きて行きます。晧祐の弔いをしながら」
「…葵さん」
「この子の父親は…晧祐さんなんです」
葵は、微笑みながら言う。
「その相手の方も納得されているんですか?」
啓司の問いに、葵は黙ってしまう。
「あなたが、そんな間違いを起こすという事は、その方はあなたにとって…」
「いいんです!」
葵は、啓司の言葉を遮る。
「私は、あの人の将来の邪魔にしかならない。だから、遠くに行きます。近くにいると…」
葵の頬に涙が伝う。
啓司は、少し考えてから
「では、私の田舎に行くといい」
「え?」
驚いている葵に
「雪乃と啓介も、そこに住むように手配するつもりです」
「でも…」
「せめて、あなた達母子を見守らせてください。晧祐の代わりに」
結局、啓司の情熱に負けて、啓司の故郷である漁港の街に引っ越ししてきた。
当初は、シングルマザーという事もあって冷たい視線などに苛まれたいたが、葵の人柄に触れて、徐々に打ち解けていった。
祐花が産まれる際も、雪乃と共に大勢の女性が手伝ってくれた。
雪乃と啓介も、引っ越ししてきて近所に住んでいる。
啓介と言えば、晧祐が警察に啓介の無実を自分の罪を告発する文書を送っていた為、無罪として母親の元へ戻された。
それでも観察処分ではあるが。
今、啓介は地元の高校に通いながら、雪乃と共に過ごしている。
雪乃は、葵や祐花の面倒をよく見てくれる。
葵が漁協で事務の仕事を始めた時から、祐花の面倒を見てくれるようになった。
それでも、出来るだけ祐花の事は、自分でやるようにしている。
要の面影のある祐花を見ていると、時々胸が苦しくなる。
要は、どうしているのだろうか?
あの村瀬さんって女性と上手くいっているのだろうか?
幸せに家庭を築いているのだろうか?
…要は、幸せに笑っているのだろうか?
最後の別れ方が最悪だった。
最後まで要は…
葵だって、要と子供と3人で幸せになりたかった。
でも、晧祐の事を考えると、出来なかった。
それに、葵と結ばれれば要が会社での立場を失ってしまう。
祐花が要に似ている事を考えれば、根も葉もない噂が横行するだろう。
それだけは避けたかった。
(要…幸せでいるのかな?)
でも…
『…俺の幸せは…アオイが傍にいてくれる事だけだよ』
要の言葉を思い出す。
(ダメよ!!要は、きっともう…)
『誰かと幸せになっているはずだ』
という言葉を飲み込む。
もう4年も経っているのだ。
要だって、優しい奥さんを見つけて、幸せな家庭を築いているのかもしれない。
だけど…
自分の心の奥では、自分を愛し続けて、一人でいる事を望んでいる。
そんな自分を否定しても、それが消える事はない。
(要…)
葵は、会いたくてたまらなかった。
会って、その手でもう一度触れてほしい…
それが願ってはならないと分かっていながらも…
そう願ってしまう。
そんな自分が、時々嫌になる時もあった。
「あ、いけない」
考え事をしていた為、時間を忘れていた。
時計を見るともう4時になろうとしている。
「祐花を迎えに行ってきますね」
葵は、席を立ってからカバンを持って外に出る。
「いってらっしゃーい」
山崎さんが声をかけたがもういない。
駐車場に停めてある自分の車に乗ってから、祐花のいる保育園へと向かう。
「本当に、忙しい子だね」
山崎さんが言うと
「…再婚する気ないのかね?」
カウンターにいた前畑というおじさんが言う。
「ないみたいだね」
「沼田とか、熱心みたいだけどな」
「ああ、宮里さんが、こっちに越してきた頃に一目惚れしたんだよね」
「それから、猛烈アタックしているらしいけど…」
「すべて撃沈」
山崎さんが豪快に笑う。
「笑っちゃダメだよ」
と言っている前畑も笑っている。
そこにドアが開き
「あー疲れた」
と沼田が入って来る。
「あら沼田君」
山崎さんが声をかけるが、彼は事務所の中を見渡して
「あれ?宮里さんは?」
と、聞く。
「祐花ちゃんのお迎え」
山崎さんが答えると、時計を見る。
「あ…そっか、そんな時間か」
沼田は、納得してから頭をかく。
「ねぇねぇ沼田君」
興味津津に山崎さんが問いかける。
「何?」
沼田が顔を顰める。
「宮里さん、まだ落とせないの?」
山崎さんは、意地悪な笑いを浮かべて言う。
図星なのか沼田は黙った。
そこに別の男性が入って来て…
「なぁ、あれ、祐花ちゃんじゃね?」
と、言う。
全員が外を見ると、岸壁の上を小さな女の子が歩いていた。
「祐花ちゃん」
沼田が言う。
しかし、一緒に歩いているのは、見た事もない男性。
遠いので顔はよく見えないが…
「誘拐?こんな小さな町で?」
誰かがボソッと言う。
沼田が事務所から飛び出して行った。
「え?雪乃さんが?」
葵が驚いたように言う。
「ええ、先程、お迎えに…」
保育園の職員が首を傾げる。
「雪乃さん、『大丈夫』とか言われてましたけど…まずかったですか?」
と、顔をひきつらせる。
葵は、首を横に振って
「大丈夫ですよ」
と、笑顔で言う。
雪乃が迎えに来たのなら安心だ。
「そういえば、門の所に男性が待っていましたね」
職員が思い出したように言う。
「え?」
「雪乃さんも『待っていた人が来たよ』なんて仰っていましたし」
葵は首を傾げる。
「それって、どんな感じの?」
葵の問いに、職員はウーンと唸って
「顔はよく見えなかったんですけど、若い方だったと…」
と、答える。
葵は、外国にいる兄が帰国している事を思い出した。
「だったら、私の兄かもしれません。外国にいる兄が日本に帰っているみたいなんで」
と、言ってから
「では、また明日よろしくお願いします」
頭を下げてから、保育園を後にする。
「もう…お兄ちゃんも言ってくれたらいいのに」
と、小さく不満を漏らしながらも車を発進させた。
たぶん、行き先は自分の職場だろう。
会ったらなんていってやろうか…
そんな事を考えていた。
漁協に戻った葵は、駐車場に車を停める。




