衝動1
「穂積、電話」
取引先からの電話を切った後、近くにいた同僚が声を潜めて言う。
「え?」
驚いているカナメに
「部長のお母様、日高の大奥様だよ。部長には知られたくないそうだ」
コウスケを気にしながら声を潜める。
「…はい」
何が何やら分からないカナメは、とりあえず電話に出る。
「はい、穂積です」
『あぁ、あなたね。ずいぶん私を待たせましたわね』
電話の向こうの雅代は、かなりイラついている様子だ。
「申し訳ございません」
カナメは謝罪すると
『まぁ、いいわ。用件だけ伝えましょう。今晩、我が屋敷に来ていただきたいの』
「は?」
『コウスケさんも、あの女も来るから、安心しなさい。大事なお話がありますの。よろしいですわね?』
「え…あの…」
『あぁ、あなたを呼んだ事は、コウスケさんには黙っていてちょうだい。あぁ、あと時間は7時。これに遅れる事は許しません。では失礼』
と、一方的に電話を切る。
カナメに意味が分からなくなり、受話器を見つめる。
首を傾げながら電話を切る。
「何だったんだ?」
電話を繋いでくれた同僚の問いかけに
「さぁ?」
カナメは首を傾げた。
「はぁ?」
「いや、何か訳が分からない…」
そう言って苦笑する。
「なんだよぉ俺、もう待っている間、大変だったんだぜ」
「あ、ごめん」
「ごめんで済むかよ…まったく」
「俺も意味が分からないんだ」
カナメは首を傾げる。
受話器を置いて、チラリとコウスケを見る。
ハキハキと仕事を進めているコウスケ。
最近、ボーっとしている時間は少なくなり、仕事には一層磨きがかかっている。
だが、何か印象が違う。
アオイの話をする時の笑顔が、眩しいくらいに輝いて見える。
…幸せそうに笑っている。
今までは、作られた笑顔に見えていた。
だけど、今の彼の笑顔は心から笑っているのだ。
何があったのだろうか?
カナメは不思議に思っていた。
…たぶん、その理由がこの電話に繋がっているのだろう。
そう考えた。
そうとしか思えなかった。
カナメが呼び出されたという事は、カナメも関係あるのだろうか?
もし、そうだとしたら…
カナメとアオイの二人だけの日々が、知られてしまった。
それは、カナメの破滅を示している。
自分の破滅は構わない。
アオイの為なら、何でも出来る。
しかし、平穏に暮らしている母の事を考えると…胸が痛くなる。
かと言って、後悔してはいない。
(そうだ…俺は、アオイと生きたい)
グッと拳を握りしめる。
(母さん、ごめん。俺、大切な人の為に…ほんと、親不幸な息子でごめん)
心の中で、深く母に謝る。
だが、雅代の話がそれとは決まった訳ではない。
…それ以外、思い当たる節はないが。
カナメは、悩むしかなかった。
だが、別の方向でも事態は進行していた。
『今夜7時に屋敷にいらしてください。遅れる事は許しません。コウスケさんには私から話をしておきます』
一方的に言うだけ言って、雅代からの電話は切れた。
返事する間もなかったアオイは、呆然と立ち尽くすしかない。
「奥様?」
英子が声をかける。
「英子さん」
受話器を置いたアオイが困ったように英子を見つめる。
「どうかなさいましたか?また、雅代様に何か?」
英子が心配そうに聞くが、アオイは首を横に振り
「いえ、そういう事は何も…ただ、『今夜7時に屋敷にいらしてください。遅れる事は許しません。コウスケさんには私から話をしておきます』とだけ…」
と、返事をする。
英子の表情は強張り
「最近、コウスケ様の様子が変わられて、奥様との仲がよろしくなられたから、その事でしょうか?」
憶測で言うしかない。
雅代なら、何か仕掛けてきてもおかしくはない。
コウスケを生甲斐にしているのだから。
そのコウスケとアオイの仲が良くなったと知れば、嫉妬して仕掛けてくるのは目に見えている。
「分かりません…ただ…」
そう言ってお腹に手をやり
「この子の命が…危ぶまれるのは…」
緊張した面持ちで言う。
「それは、考えられますね」
英子は、アオイの考えに同調した。
あの時のように、子供の命を狙ってくる事が可能性として一番高い。
コウスケが変わったとはいえ、雅代は実の母親だ。
命じられれば、従うかもしれない。
アオイは、怖くてたまらなくなってきた。
「では、私もついて行きますわ」
「でも…」
「奥様は、大切なお体です。私が何としてもお守りいたします」
「…すみません」
アオイは、頭を下げる。
英子は、微笑んで
「それが私の役目ですから」
そう言った。
コウスケは、呼び出し画面に映し出された番号に眉を顰める。
日高の屋敷の…母・雅代のいる屋敷の番号だった。
今は、母とは話したくない…だが、そういう訳にもいかない。
コウスケが出るまで、ストーカーのように電話をかけてくるだろう。
やはり、実の母だから邪険にも出来ない。
仕方なく通話ボタンを押して
「もしもし」
と、電話に出た。
『あら、コウスケさん?』
雅代の声は甘ったるく、先程のカナメやアオイに対しての言葉遣いと正反対の方角にあった。
「お母様、今は仕事中です」
コウスケは、声を潜めて小さな声で言う。
『分かっていますよ。ですけど、大事なお話なんですの』
「芹澤さんの事なら、お断りいたします」
先手を打つようにコウスケは言う。
雅代は、ホホホ…と笑い
『その事も含めて、大事なお話です。あぁ、あの女も呼びましたよ』
【あの女】辺りから、声のトーンが変わる。
コウスケは、眉を顰めた。
「アオイは私の妻です。それは変わりません」
『その話は、後でしましょ』
また、声のトーンを元の甘ったるい所まで上げる。
『とにかく、今夜7時に屋敷にいらしてくださいね。あの女も呼びましたからね』
最後は、脅すように言う。
「おか…」
【ブツッ】
またしても一方的に切った。
コウスケは、困りながらも、少し考えてから、自宅に電話をかける。
「あ…英子さん、先程…あぁやはり母が…アオイは?…行くと言っているのですね…英子さんも一緒に?…分かりました、では7時に屋敷で」
電話を切ってから、溜息をつく。
あの母の事だ。何か企んでいる可能性がある。
何が何でも、アオイは守らないといけない。
お腹の子が自分の子供じゃなくても…
今の自分なら、愛せる。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
(もう、昔の俺じゃないんだ)
コウスケはそう言い聞かせた。
定時に仕事を終わらせたカナメは
「お先に失礼します」
と、急いで会社を出た。
寄り道する訳ではないが、やはりコウスケより遅く到着するのはよくないだろうと、考えた。
呼び止める同僚の声を尻目にカナメは、時計を見ながらバス停へ急ぐ。
「穂積さん!」
絵莉花に呼びとめられたが
「すみません、今日は用事がありますので」
と、逃げるように去っていく。
止める間もなく、立ちつくす絵莉花。
「何があるの?」
絵莉花は興味を覚えた。
もしかしたら、カナメの心を占める女性の元かもしれない。
彼女の行動力は、早かった。
急いでカナメの後を追いかけた。
そんな絵莉花に気付かないまま、バスに乗り駅で電車に乗り換える。
一度しか行った事はないが、カナメの記憶力はいいので、きちんと覚えていた。
間違えず電車を降りてから、またバスに乗る。
(穂積さん、どこに?)
見憶えのある景色を絵莉花は思い出す。
(まさか…部長のお屋敷?)
カナメの降りたバス停で、確信に変わる。
長い塀に沿って歩きながら、カナメの後ろ姿を見つめていた。




