変化1
アオイは、気味が悪くなった。
それは、妊娠のせいではない。
それだけは確実だ。
では一体何が気味悪いのか…
コウスケの様子がおかしいと感じている。
ある日を境に、アオイへの暴力がおさまったのだ。
というより、アオイへの興味が無くなったかのようにベランダに出て外を眺めていたり、浴びるほどお酒を飲んだり。
自分への暴力が無くなったのは、よかったのだが、何かがおかしい。
アオイは、不思議に思いながらも、束の間であろう穏やかな時間を過ごしていた。
「最近、旦那様のお元気がありませんわね?」
英子にも分かるくらい、コウスケの様子は変化していた。
「ええ…そうですね」
紅茶を飲みながら、アオイはどう反応してよいか分からない。
結婚してから、ずっと続いていた暴力や暴言なのだ。
気味が悪い。
というより、いつまた始まるのかと、逆に恐怖が湧く。
「どうなさったんでしょうか?」
思い当たる節はない。
本当に、今までと180°変わったかのようだった。
どこかで頭でも打ったのだろうか?
そんな笑える考えしか浮かばない。
(でも、この子にとっては…)
子供への危険がないのは、何よりもよい事だ。
こんな平和がいつまで続くかは分からないが、いつまでも続いてほしいと願ってしまう。
「最近、お疲れのようですわね…会社に芹澤のお嬢様が…あっと」
【しまった!】と言わんばかりに、英子は動揺する。
アオイは
「芹澤のお嬢様って、もしかして大奥様が進めている縁談の相手の方?」
と、英子に聞く。
英子は、少し遠慮がちに
「ええ、そうですわ。ここのところ毎日のように葛城製薬に通っているとの事です」
観念したかのように白状する。
「そう…」
アオイは。ティーカップを見つめた。
「それにしても、大奥様のなさりようは…亡き春恵様が知ったら、お嘆きになるでしょうに…」
英子は、ぼそっと呟く。
「そういえば、英子さんは、春恵お祖母様と親しかったと聞いたのだけど、どんな方でしたの?」
アオイの問いに、英子は困りながらも
「春恵様は、とても優しくて懐が広いお方でしたわ」
そう答えた。
そして、悪戯っぽく笑い
「奥様、私の事を大旦那様の愛人かと聞いているのではないのですか?」
ストレートに聞いてくる。
「え?その…」
アオイが、困っていると英子はクスクスと笑い
「いいんですのよ。その方が都合がいいって、大旦那様がおっしゃったの。ですが、実際は違いますのよ。私は、大旦那様とそのような関係ではないのです」
そう言いきった。
「そう…なんですか?」
「ええ、いろいろ誤解がありますけどね。私、もともと春恵様のお付きのメイドでしたのよ」
そう言って苦笑いを浮かべた。
「私の両親が不慮の事故で亡くなった時、私はまだ小さくて、誰が預かるか揉めてしまい」
と、表情を少し引き締めた。
「その時、春恵様が『私が引き取ります!』って。私の母が春恵様のお付きのメイドをしていたんです」
と言い英子は、淋しく笑った。
「私を引き取ってくださった春恵様は、幼い私に礼儀作法や勉強、たくさんの事を叩きこんでくださいました」
英子は、思い出を紡ぐように話を進める。
「学校にも通わせてくださって、本当に感謝しても足りないくらい。妹のように可愛がってくださって」
その表情は、とても優しく満ち足りていた。
「宗助様も、妹のように可愛がっていただきましてね、それに光江さんも」
「光江さん?」
アオイが問いかけると、英子は笑い
「安川光江さん、宗男様のお母様にあたる方なんですよ。春恵様と光江さんは、親友同士でとても仲が良かったのですよ」
「え?本妻と愛人が…ですか?」
アオイの一言に、英子は笑いだす。
「あ、失礼いたしました。それは事実ではないのですよ」
と否定をするかのように厳しい口調で言う。
「光江さんは宗男様をお産みになりましたが、宗助様とはそのような関係じゃないんです」
そこで、英子は言葉を切る。
「あれは、不幸な出来事でしたわ」
英子は、目を閉じてから
「春恵様は雅代様をお産みになった後、産後の肥立ちが悪くて…、それで二度と子供を産めない体になられました」
と言い、ギュッと両手を握りしめる。
「ですが、産まれたのは女の子…男の子ではなかった。私が引き取られてから1年もしない…そんな時期でしたわ」
その声は、暗く沈んでいく。
「そして、春恵様は、親友である光江さんと夫である宗助様にとんでもない事を…」
英子は、少し躊躇しながら
「『自分の代わりに日高家の跡取りを産んでくれ』と…」
アオイは、言葉を失った。
「あまりの事に、お二人とも驚かれたました。『何をバカな冗談を…』と笑って流そうと」
英子は、一回息をついて続ける。
「ですが、春恵様は『これは、冗談じゃない。本気で言っている』とおっしゃいました」
英子の語り方から推察するに、その時の空気が張り詰めたモノだと思われる。
「しかし、お二人ともそれは出来ないと、申されました」
アオイには、その時の情景が浮かぶようだった。
「女子では跡取りにはならない…そう当時の大奥様に言われ、目ぼしい女性の候補まで用意されていたんです」
「まあ…」
アオイは、口に押さえた。
春恵がどんな気持ちで、夫と親友に、そんな残酷な言葉を告げたのか…それを考えるとツラくなる。
「結局、春恵様の情熱に負けて、お二人は…それで宗男様がお生まれになりました」
英子は、少し微笑む。宗男が産まれた時、春恵がどんなに喜んでいたのか…その時の事を思い出したのだろう。
だが、すぐに表情は硬くなり
「しかし、春恵様は宗男様をお引き取りにはならずに光江さんの手で育てるようにとおっしゃったのです」
眉間に微かに皺が出来る。
「当時の大奥様…春江様の姑は、大切な跡取りだから自分の手でお育てになりたかったのでしょう」
だんだんと、低く沈んだ声になる。
「しかし、かの方の性格を考えると、宗男様の人格が歪んでしまうのは目に見えていた」
再び、ギュッと手を握りしめる。
「大切な夫と親友の子供だから、そうおっしゃって光江さんと宗男様を遠くに…」
英子の頬に涙がつたう。
それをハンカチで拭ってから
「しかし、あの方、当時の大奥様は執念深い方でした…」
そう言いながら視線を横に流し
「ありとあらゆる手を使い、宗男様を見つけ出したのです。そして、大金と引き換えに宗男様を引き渡すようにと」
その時の情景が目に浮かぶようだ。
「光江さんは、首を縦に振る事はしなかった。ですが、諦めきれない大奥様は…光江さんの生活を壊し始めたのです」
…なんて事を。昔から日高家の人間は…と憤りを感じる。
「あらゆる嫌がらせ、引っ越しても見つけ出されて…そんな生活を続けているうちに…光江さんは病気になり帰らぬ人に…」
そこで、英子は嗚咽を上げて泣き出した。
だが…表情が険しくなり
「大奥様は、宗男様を引き取ろうとしましたが、宗助様と春恵様が、先に引き取り正式に自分達の子供といたしました」
静かに言う。
「宗男様をお守りする為に屋敷を買い、雅代様と共に引っ越しをされました。そして、平穏の中で宗男様をお育てになろうとされたのです。ですが…」
英子の言葉がつまった。
「雅代様の性格は、大奥様に遺伝なのか、とても…」
そう言って顔を反らす。
「事ある毎に、妾腹である宗男様をおイジメになり、奥様からお叱りを受けると、逆上してさらに宗男様にキツく」
悲しげに顔を振った。
「いつも春恵様が宗男様を庇われておられました」
その悲痛な思いが伝わってくる。
「母親を奪われた…そう思われてしまわれたのでしょう…雅代様の人格は、成長する毎に歪んでいったのです」
「雅代様は、引っ越される前、ずっと大奥様に蔑まれておられました」
英子の声が、段々と震えてくる。
「『お前は女で跡取りになれない。お前でなくて宗男がいてくれたらいいのに』そんな言葉は日常茶飯事」
アオイは、雅代に受けた日々を思い出す。
毎日のような罵倒の日々…それが幼い子供に降りかかっていようとは。
「春恵様が雅代様を庇われていましたが、春恵様もかなり責められて…」
そう言ってから、泣き出す。英子は、それを傍で見て来たのだ。
だが、涙を拭いてから
「もともと産後の肥立ちが悪くなった原因も大奥様でした。ですから、宗助様は、春恵様と雅代様もお救いになる為に引っ越しを決心されたのです」
コウスケが屋敷を出る際に、どれだけ揉めたかは、見ていないアオイにでも分かる。
それと同じ事が当時、起こったのだろうと思った。
「しかし、大奥様もお亡くなりに。ですが、雅代様は日を追う毎に大奥様の生き写しのようになられて…」
張り詰めた声でいう。
「春恵様もお苦しみになられました。やがて成長した雅代様は、啓司様をお見初めになりました」
そう言って小さくため息をつく。
「しかし、当時は雪乃さんという婚約者がいらっしゃいました。ですが、雅代様は強引に二人の仲を裂かれたのです」
と、唇を噛む。
「雅代様は、諫める春恵様の言葉も受け入れず、啓司様と結婚を…そして、どんな手を使ってでも男の子を出産すると言いアメリカの病院にまで通われました」
それが、雅代の母親に対する意地みたいなモノだったのだろう。
「そうしてコウスケ様がお産まれになりました。そして、雅代様のなさりように心を痛められた春恵様は…20年前にお亡くなりに…」
英子は、しばらく泣き続けた。
そして、涙を拭い
「春恵様は、宗助様に遺言を残されていました。跡取りは宗男様にされる事、雅代様を邪険にしない事、そして、私の人生を保証する事でした」
英子は、目を瞑った。
「英子さんの人生の保証ですか?」
アオイは首を傾げる。
「私は、奥様に妹のように可愛がっていただきました」
そう言って上を見上げて
「本当に、大切にしていただきました。ですから、私の事を頼むと…宗助様は、私によい所に嫁入り出来るようにとお話を持ってきてくれましたが…」
そこで、儚げに笑い
「私の人生は春恵様に捧げると決めておりました。ですから、すべてお断りしたのです」
凛とした様子で言う。
「ならば…と宗助様は私を傍付きの女中として召し上げてくださいました。そうすれば生活は保証できるから…と」
そう言ってから、少し微笑み
「そうしていくうちに、周囲から宗助様の愛人などと言われるようになりました。しかし、宗助様も宗男様も、『言いたい奴には言わせておけばいい』と」
英子は、苦笑しながら
「きっと、春恵様もそうおっしゃるだろう…と。ですから、私は、言われるままに屋敷でお世話になっておりました」
何も言えない…アオイは、あまりの話に押し黙ってしまった。
「そうだったんですか…」
その言葉だけを見つけ出せた。
「はい」
英子は、満ち足りたように微笑んだ。
きっと、春恵も同じように笑っていたのだろう




