疑惑3
すっかり忘れていたカナメは、次の日、何ともないように出勤をした。
あくまで、表面上は…だが。
内心では、アオイの事が気がかりでならなかった。
いつものようにデスクで、書類の決済を始める。
すると…
「おはよう」
清々しい朝によく似合う笑顔を浮かべてコウスケが出社してきた。
全員が立ち上がり
「おはようございます。日高部長」
と、一斉に頭を下げる。
「みんな、今日もがんばろう」
爽やかな声でいい、自分のデスクに座る。
昨日、あった出来事など微塵も感じさせない。
それが、彼が日高家で学び生き抜いてきた理由なのだろう。
カナメは、いつ呼び出されるか気を揉んでいた。
アオイの様子を聞きたかった…しかし、自分から動く訳にはいかない。
あくまで自然に、自然な成り行きという形を取らなくてはならない。
そのためにも、目の前の書類を片付けておく必要がある。
声がかかった時に、カナメの手が空いていなかったら、他の人間に用を言いつけるであろう。
いつもより、気合いが入った。
「何か御用でしょうか?」
デスクの前に立つと同時に用件を聞く。
コウスケは、いつものように笑顔を向けてから
「そう、この書類を決済して欲しいんだ」
と、言って机の片隅に重なり合っている書類を指差す。
かなりの量だ。
【ゴクリ…】
と、唾を飲み込む。
「どうしたのかね?」
コウスケが笑みを浮かべる。
カナメは意を決して
「分かりました。この書類ですね」
と、書類を抱える。
「今日は、特に忙しくなりそうだから、早めに終わらせてもらいたいのだが」
「分かりました」
カナメは、答えてから書類の束が崩れないように配慮しながら一礼した。
「あ、そうそう、穂積君」
席に戻ろうとしたカナメを呼び止める。
「はい」
カナメが返事をすると
「昨日は、助かったよ。やはり君は信用出来る人間のようだ」
愛想よく笑う。
どうやら、カナメが昨日の一件…日高邸の階段での一件を誰にも漏らしてない事を指しているのだろう。
「ありがとうございます」
カナメは、コウスケに体を向けてもう一度一礼した。
コウスケに背を向け、自分の席へと向かう。
その姿を、探るように目を細めて、コウスケは見ていた。
背中に悪寒を感じながら、カナメは席について、本来の仕事とコウスケより与えられた仕事を淡々とこなしていく。
当然の事だが、コウスケからの書類を優先して。
その姿を見ながら、総務課の面々が何やら話している。
「すげぇ量だな」
「穂積、何かやらかしたのか?」
「いや、昨日も普通に何の問題もなく…だよな?」
「いや、確か、例の専務の姪との縁談断っていたみたいだから」
「…かもな。穂積もバカだよ。せっかくのチャンスなのにさ」
等など、声を潜めて話している。
カナメは、聞こえてはいたが、無視した。
いちいち相手にしている暇はない。
今日中に、意地にかけて、書類を決済しないとならないのだから。
いつも以上に集中して書類を決済している。
これでミスでも犯したら、大変な事だから。
しかも、誰も手を貸そうともしなかった。
自分の仕事が忙しい…というのは体のいい言い訳にすぎない。
誰もが、コウスケに睨まれる事を恐れているのだ。
気にはかけて、チラチラ見てはいるが、手を出すものは一人としていなかった。
(仕方ないよな…誰だって守らないとならないモノがあるから)
カナメの方も、諦めていた。
そして、いつの間にやら、昼休みになった。
コウスケの書類は、まだ残っている。
コウスケの書類の間に、周囲に迷惑をかけないように、自分の書類も決済していたからだ。
まだまだ、ゴールは遠い。
カナメは軽く伸びをする。
体中が悲鳴を上げているようだ。
集中しているから、目が結構きている。
バックの中から目薬を取り出して、液を目に射す。
じんわり…と目に液が染みわたる。
(やっぱり、相当きてるな)
そう思いながらも
「さて、やるか」
昼休み抜きの覚悟で仕事に取り掛かる。
少ししてから
「お手伝いしましょうか?」
聞きなれた声がする。
カナメは、一応手を止めて振り返る。
そんな暇はないのだが…
笑顔を浮かべた絵莉花が立っている。
「いえ、結構です」
カナメは丁重に断ってから、休めていた手を動かす。
「こんな大量の書類、一人では大変じゃありませんか?」
と、絵莉花は、隣の席に座る。
「手伝いますよ」
笑顔で言うが
「折角だけど、ご好意だけ受け取っておくよ。これは、自分で受けた仕事なんだから」
カナメは、書類を決済しながら無表情で言う。
「そんな片意地張らなくても…」
絵莉花は、呆れたように言うが、周囲を見渡して
「誰も手伝ってくれないんですね」
冷めた口調で言う。
「それが当たり前の事さ。自分だって、立場が同じならそうしていた。上司に睨まれるのは、ごめんだからね」
書類に集中しているため、カナメの物言いもどこか冷めている。
「でも、あなたは、上司に睨まれる事をしたじゃありませんか?」
「それは、どうしてもゆずれない事だからね」
短く答える。
「どうして?私と交際・結婚したら、将来が約束されるのよ」
絵莉花は、いらついた口調で聞く。
「そんな事しても、誰も幸せにならないからさ」
カナメは短く答えた。
「え?」
「君は、自分の愛してくれない夫を受け入れきれるかい?」
カナメの問いに、絵莉花は言葉を詰まらせる。
「俺は、君を愛せない。だから、君を幸せに出来ない。だから、この話を断ったんだ」
淡々とカナメは言う。
「さ、もう自分の部署に帰った方がいい。俺に関わると君も睨まれるよ」
絵莉花に視線を向けず、カナメは書類を決済していた。
その態度が気に入らないのだろう、絵莉花は体を震わせて
「そんなにその女性が大事なんですか?」
怒りに震えた声で聞く。
カナメは、何も答えない。
「そんなに、その女性が好きなんですか?」
絵莉花が声を荒げる。
【はぁ…】
息をついてから、手を止めてカナメは絵莉花の方を見る。
今にも泣きそうな顔をしている。
「答える義務はないだろ」
カナメは答えた。
「でも…」
「俺が誰を想っていようと、関係ないだろ?」
その言葉は、絵莉花の胸に突き刺さった。
「…そんな言い方」
「冷たい言い方しか出来ないのはいくらでも謝ります。ですけど、俺はあなたの想いに応える事は出来ない」
カナメは、キッパリ言ってから、再び作業に取り掛かる。
「…やっぱり部長の奥さんなんですか?」
くぐもった声で絵莉花は呟く。
カナメの手が止まる。
「やっぱり、そうなんですか?」
確信したかのように、絵莉花は言う。
カナメは首を振って
「違うよ。部長の奥さんじゃない。確かに部長の奥さんとは小中学校での同級生だったけど、高校に入ってからは会った事もない。昨日部長の屋敷で久しぶりに会ったんだ」
カナメは、きっぱりと否定した。
だが、絵莉花は引かない。
「言ったでしょ?あの人は、あなたが思うような人じゃないって!あの人は…」
「それ以上は言わない方がいい」
カナメは、厳しい口調でたしなめた。
そして、一息ついてから
「君は、根っからのお嬢様だから、まだ世間が分からない部分があると思う。だけど、世の中には、言っていい言葉と言ってはいけない言葉があるんだ」
厳しい口調で言う。そして、続けるように
「君の言葉が真実か嘘か、そんな事は関係ないんだ。その言葉で責任を取らされるのは、君の伯父さんだけじゃない。君のお父さんにまで立場を失う事になるだろう。言葉っていうのは、重みがあるんだ。その言葉を発すると責任が背負わなくてはならない。それを考えてから発言するといい」
そう言ってから、カナメは仕事を再開させる。
静かに淡々と…
絵莉花は、しばらくカナメの後ろに立っていたが、カナメが言葉もかけずに黙って書類を決済しているのを見て、静かに総務課から出て行った。
カナメは、気配で感じてはいたが、振り向かなかった。
ただ…
(すまない事をしたな…ごめん)
心の中で謝った。




