想い…伝わる時
その日の夕方、シンは再び訪れた。
リカからの預かり品を持って。
それは、未使用の下着とTシャツだった。
「監視の目を欺く為に、ちょっと時間がかかった」
シンは、そう言って荷物を渡した。
シンの話によると、リカの家に行った後、意外な事実がわかった。
リカの部屋には盗聴機が仕掛けられているらしい。
リカも、知り合いに片っ端に電話をかけていたが、時々ノイズが入っていたらしい。
不審に思って探してみたら、盗聴機が見つかったという訳だ。
おそらく、コウスケ達が家中を探し回った際に、隙を見て仕掛けたのだろう。
時間がなかったために、巧妙に分からないようにとはいかなかったようだ。
シンとリカは、雑談しながら、筆談で話をした。
アオイが無事でいる事を。そして、カナメの家にいる事も。
リカは驚いたが、すぐにアオイの着替えの事に気付いた。
『シンの忘れ物』
と言って、下着とTシャツをかさばらないようにしてシンに渡した。
リカは、シンの気持ち等を理解した。
それは、自分も同じだから。
そして、アオイに手紙を託した。
リカの家を出たシンにも、日高家の者が張り付いていた。
シンは一旦自宅に寄り、荷物をリュックに詰め直してから、マウンテンバイクでアオイの捜索のフリを始めた。
マウンテンバイクなら、リュックを背負っていても、不自然ではないからだ。
それに、ついてきている連中を、うまく撒けるかもしれなかったし。
散々、リカから言われた場所を回りに回ってから、通りがかりのフリをしてカナメの家に寄った、という訳だ。
シンは、バイトに向かうカナメと一緒に家を出た。
無論、家は真っ暗な状態になった。
暗い中での孤独…
それは、やはり怖い。
四年の間に、蓄積されてきた恐怖がアオイを押し潰しそうになる。
布団の中での丸まって、息を殺すようにしていた。
ここにも、日高の家の者がいるかもしれない。
そんな恐怖と戦っていた。
どれだけの時間が過ぎたのだろうか…
アオイには、何十時間にも感じられた長い時間。
息が苦しくなってくる。
その時…
【ガチャガチャ…ギィ…】
玄関の鍵が開く音、ドアが開く音がする。
アオイは息を飲んだ。
もしかしたら、日高の家の者…いや、コウスケかもしれない。
震えが止まらなかった。
「宮里?」
カナメの声が聞こえた瞬間…安堵した。
パッと明かりがつく。
アオイは眩しそうに目を反らす。
「暗かったね、大丈夫?」
カナメの言葉に、アオイは首を横に振り
「大丈夫」
そう答えた。
本当は、不安でいっぱいだったのだが。
カナメは、コンビニの袋からお弁当を出して
「店の売れ残りで悪いんだけど、食べない?」
優しい笑顔を浮かべて言う。
アオイは、それだけで安心していた。
恐怖に震えていた自分が、どこかに消えていた。
「いいの?」
「うん、余分に貰っているから」
「そうなんだ」
「暖めなおすね」
カナメは、弁当を持って台所に向かう。
それを追うようにアオイも台所に入り
「お茶でもいれようか?」
と、湯呑み等を出した。
「あ、いいよ、いいよ」
カナメは、慌てて止めようとするが
「でも、何でもお世話になっている訳にはいかないから」
アオイは、笑顔で言う。
「そっか…」
カナメは、お茶の葉を出して
「じゃあ、お願いするよ」
ヤカンで湯を沸かして、お茶をいれていると、アオイの胸の奥が暖かくなっている。
日高の屋敷では、有り得なかった穏やかな感情。
誰かの為に、お茶を入れる喜び。
喜びに浸っている反面で、いつかは終わらせないとならない辛さが襲ってきた。
【ココニイテハイケナイ】
その思いは強い。だけども…
【ココニイタイ】
という強い想いが勝っているのだ。
どうしたらいいのだろう?
どうしたいのか?
答えが見つからなかった。
そんな日々が数日続いた。
カナメが仕事に行っている間、アオイは掃除や洗濯などの家事をしていた。
周囲には知られないように、掃除は掃除機を使わずに、洗濯は室内に干してはいた。
…これが、【幸福】というものなのだろうか?
普通に結婚していたら、こんな気持ちだったのだろうか?
そんな事を、アオイは考えていた。
だが…
アオイがいなくなって数日、日高家…コウスケは、血眼になって自分を探しているだろう。
だから、早く出ていかないとならない。
だけど…小さな幸せを見つけてしまったアオイは、戻る事が怖かった。
だが…
その幸せがいつまでも続く訳にはいかなかった。
その日、いつも通りにカナメがコンビニの残り物を持って帰ってきた。
お茶を入れて、弁当を食べ始める。
そこに電話が入った。
シンからの電話だった。
「もしもし、シン?」
カナメは、緊張を隠せなかった。
『カナメ…』
電話の向こうのシンの声は沈んでいる。
「どうしたんだ?」
嫌な予感はしていた。
シンが、今から話す事が悪い知らせであろう事は…
『実はな…リカに張り付いている日高の回し者から【数日以内にアオイが現れないならば、リカと家族の身の安全は保証できない】て通告を受けたんだ』
シンの声は苦渋に満ちている。
こんな事を言えば、アオイはすぐにでも、日高の家に帰る事は分かっていた。
だが、シンにとってリカは、かけがいのない存在なのだ。
「そんな…」
『それだけじゃない…宮里の家族の保証も、ほのめかしたらしいんだ』
チラリと、アオイを見る。
「じゃあ…」
『いや、今すぐ戻れば、リカが居場所を知っていた事になる。そうしたら…どんな事になるか…』
シンの声は、重苦しい。
リカから聞いているのだろうか。【日高コウスケ】の恐ろしさを。
『リカは、絶対に伝えるなって言ったけど…すまない』
「いや、俺が同じ立場なら、そうしていた。謝る必要はないんだ」
『本当にすまない』
「気にするな。とにかく、宮里に話してみるから」
『あぁ…』
「じゃあな」
【プチッ】
と電話を切った後、カナメはアオイに、どう話を切り出せばいいのか分からなかった。
「…リカに何があったの?」
悟っているようにアオイは言う。
カナメが答えきれずにいると
「リカの身に危険が迫っているのね?」
アオイには、手に取るように分かる。日高コウスケが、リカに脅迫を始めている事が…どんな言葉であるかも。
アオイは、唇を噛んで
「私、戻らないと」
恐怖を堪えながら言う。
だが、カナメは首を横に振り
「今、帰れば、中沢が居場所を知っていた事になるんだ。そしたら、中沢は…」
カナメの言葉に、アオイは息を飲む。
そうだ…リカは何も知らない事になっている。そうなったら、リカの…いやリカの家族までも危害を加える。
【日高コウスケ】という男は、そういう人間なのだ。
「…私、どうしたら…」
アオイは泣き崩れるしかなかった。
(最初から、戻っていたらよかった。私が、自分の事ばかり考えたから…)
そう、自分を呪うしかない。
カナメは、アオイを抱き締めた。
「違うよ、自分を責めたらいけない」
アオイの気持ちを見透かしたように言う。
「でも…私が…」
「自分を責めちゃいけない」
「…穂積君にも迷惑をかけてる。私、何て事を…みんなに迷惑をかけてばかりで…」
アオイは、自責の念に囚われていた。
自分さえ…いなければ…
アオイの心は、張り裂けそうだった。
「俺は、自分の意思で宮里をここに置いているんだ。迷惑だなんて感じてない」
カナメは否定するが、アオイは泣きじゃくりながら首を横に振って
「いずれ、分かるわ。あの人に知られる。そしたら…」
アオイは、泣きじゃくるしかない。
自責の念と恐怖…様々な感情でパニックになりそうだった。
そんなアオイに、カナメは…
一度、体を離した。
「え…?」
アオイが小さく呟くと同時だった。
カナメとアオイの唇が重なったのは。
アオイは、大きく目を見開く。
柔らかい口づけだった。
カナメは唇を離した後…
「好きだ」
ハッキリと言った。
アオイの体から力が抜ける。
(そんな…そんな…)
そう思いながらも、感じていた。だけど、それは自分の願望だと、思うようにしていた。
ありえない。
あってはならない。
彼が優しくしてくれるのは、自分の境遇を同情してくれたから。彼が優しい人だから。
そう言い聞かせていた。
同時に迷いが出た。
自分の気持ちを伝えるべきなのか?
長年の想いを成就すべきなのか?
もし…伝えたら、引き返せないかもしれない。
アオイは迷っていた。
カナメにとっても、一か八かの賭けだった。
アオイの宥めたい。
アオイの苦しみを取り除きたい。
守りたい…
そうする為には、自分の気持ちを告白するしかない、と思った。
これが、罪深い行為である事も、決して引き返せない道への入り口になるかもしれない事も、分かっている。
ただ…
アオイの涙を、止めたかった。
アオイは、黙ったままだった。
カナメは、息を吸って
「ずっと好きだった。10年以上も前から、ずっと…宮里だけを想っていた」
カナメの告白に、アオイは胸を締め付けた。
「私は…私は…」
ぎゅっと拳を握る。
(もう、引き返せなくてもいい…)
「私も、あなたが好き。10年以上も昔から、きっと同じ時間かもしれない」
アオイの中で、何かの箍が外れた。
アオイ自身も分かっている。
これは、【罪】なのだと。
分かっていても…想いを…溢れ出してくる想いは止まらない。
…止めたくない。
アオイの答えに、カナメの中で決意が固まった。
アオイを守ってみせる。
絶対に、日高の家には戻したりはしない。
【罪】だと、言うならば背負ってみせる。
カナメは、アオイをぎゅっと抱きしめ
「俺、ずっと怖くて…コクったら絶対にフラれるって思っていた。そうこうしているうちに、結婚したって聞いて。すっげぇ後悔した」
「私もそうだよ。断られるって思って、ずっと言えなかった。忘れなきゃって思っても出来なかった。でも、日高との結婚が決まった時に、一生胸の奥に封じ込めるって決めたの」
「俺達、すっげぇ遠回りしていたんだな」
「うん」
二人は顔を見合わせて、もう一度唇を合わせた。
長年の想いを込めた、長い長い口づけだった。




