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朝焼色の悪魔-第1部-  作者: 黒木 燐
第6章 暴走
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6.赤い情念

「どうしたの、祐一君、何か言ったらどうなのぉ?」

 美千代は薄笑いを浮かべながらからかい口調で言った。祐一が口ごもっているのは、彼にとってまずいことだからだろうと思ったのだ。そして、祐一は、苦渋の選択に悩み黙って下を向いている。後ろにいる二人はハラハラしながら状況を見守っていた。

「祐一君! 良夫君!」

 その時、彼らを呼ぶ声がした。祐一たちは一斉に声の方を見た。すると、そこには彼らのところに駆けて来る葛西の姿があった。

「葛西さん!」

 良夫が嬉しそうに言った。

「祐一君、私は確か、1人で来なさいって言ったハズよね…!!」

 美千代が険しい顔で祐一に言ったので、良夫はマズイと思ってすぐに答えた。

「違うよ、僕が勝手に呼んだんだ。西原君は、最初っから1人でおばさんと会うつもりやったんだよ」

「本当かどうかわかったもんじゃないわ。これじゃ人が増える一方じゃないの」

 美千代はそう言いながら、葛西の走ってくる方を向いて怒鳴った。

「それ以上近づかないで!!」

 葛西はその声に従ってピタッと立ち止まった。まだ彼らまでの距離は10m以上ある。葛西は少年たちに聞いた。

「みんな、大丈夫かい?」

「はい、なんとか」

 良夫が答えた。子供らの安全を確認して、葛西は今度は美千代に向かって言った。

「秋山美千代さんですね。どうか、落ち着いてください。話し合いましょう。とにかく、香菜ちゃんを早く解放してあげて下さい」

「あなた、どうして私の名前を?……ひょっとして、警察の方?」

 美千代は(いぶか)し気に葛西を見ながら言った。葛西は少し躊躇したが、意を決して答えた。

「そうです。K署、刑事第一課の葛西です」

「一課……」

 それを聞いて美千代の顔色が変わった。逃げるためとはいえ、人を1人瀕死に追いやったことを思い出したのだ。さらに葛西の後から二人走って来るのを見て、いっそう表情が厳しくなった。二人のうち1人は制服から女性警察官なのは聞くまでもない。多美山は葛西の隣に並ぶと小声で葛西と葛西の後方に立った堤に言った。

「おまえさんたち、あの女の右手に時々光るもんが見えるとに気がついとるか?」

 多美山は目ざとく美千代が隠し持っている凶器らしきものを見つけた。葛西も確認して言った。

「ああ、ほんとだ。マズイですね……」

「ジュンペイ、おまえはとりあえず黙っとけ。おれが説得してみる。堤、おまえさんはあのおじょうちゃんを保護した後を頼む。よかな、二人とも」

「はい!」

 二人は同時に言った。多美山はかるく頷くと、美千代の方を向いて言った。

「秋山美千代さん……ですね? 私はK署の者で多美山と申します。」

 そう言いながら、さりげなく一歩を踏み出す。

「お子さんを亡くされて辛い気持ちはようわかります……」

「あなたに? あはは、何がわかるって言うのよ!!」

「わかりますよ。私も若い頃娘を1人亡くしましたから……」

 多美山は静かに言った。美千代は一瞬目を見開いて息をのんだ。しかし、美千代以外の居合わせた者たちも、驚いて多美山の方を見た。

「仕事で死に目に会えんで、今もそれを思うと胸の辺りがぎゅっとすっとです。だからわかっとですよ、息子さんのために何かしたいと言う気持ちも……」多美山は続けた。

「でも、もう充分やなかですか。祐一君を責めたって、雅之君が悲しむだけですよ。もう、こんなことは止めて帰りましょう。それにあなた、体調も良くなかとでしょう? もう立っとうとがやっとなんやなかですか?」

 美千代は黙って何も答えない。さらに多美山は優しく言葉をかけ続けた。

「もう、おじょうちゃんを解放してあげまっしょうよ。可哀想に、一所懸命泣くのばこらえとぉとが判りますか? さ、おじょうちゃんば放してこっちへ渡しんしゃい」

 美千代は首を横に振った。だが、さっきまでの強気は影を潜め、その動きは弱弱しい。多美山の優しい言葉に香菜の肩が震えだしたのに気がついたからだ。自分のしていることが、幼い少女を苦しめていることが判っており、多美山は巧妙にその点を突いたのだった。美千代の心が動いたのを確認した多美山は、さらにゆすぶりをかけた。

「私はあなたを逮捕したくなかとです。どうか、おじょうちゃんを放してやってくれんですか。大丈夫、誰にもあなたに危害は加えさせんですから。そって一刻も早う治療ば受けんと……」

「おばさん、僕はどこにも逃げたりしません、しませんから……、とにかく香菜を放してください。お願いします!」

 祐一も必死で美千代に声をかける。すると、美千代は祐一の方を向いて言った。

「じゃあ祐一君、こっちに来なさい。代わりに香菜ちゃんを解放してあげるわ」

「祐一君、ダメだ、行っちゃいけない!」

 葛西はとっさに止めたが、祐一はすでに一歩前に足を踏み出していた。

「さあ、ゆっくりこっちにいらっしゃい」

 祐一は言われたとおりに、ゆっくり美千代に近づいて行った。

(こりゃあマズかね……)多美山は思った。(こうなったら、何としてでも香菜ちゃんを美千代から離すことを優先せんと……)

 多美山は美千代と祐一の様子を慎重に観察した。

「そこで止まって」

 2mほどの距離に祐一が近づいたところで美千代は彼を制止した。

「そこの可愛いおじょうちゃん」

 美千代は、彩夏の方を見て言った。

「祐一君より一歩手前まで来てちょうだい。あなたに香菜ちゃんをお渡しするわ」

 彩夏はいきなり自分にご指名がきたので驚いたが、すぐに命令に従った。彩夏が祐一の手前で止まったところで、美千代はいきなり香菜の腰紐を引き寄せ、ナイフを構えた。一瞬その場の全員が凍りついた。

 しかし、美千代は約束どおり香菜を解放した。ナイフは腰紐を切るために出したものだったのだ。しかし、紐から手を離せば済むことなのに何故紐を切ったのだろうか。美千代は左手に残った腰紐を握ったままだった。手にはこの季節に薄い手袋をしていた。香菜は紐を切られた反動で少しよろけたが、しっかりとした足取りでバランスをとり立ち止まった。その後美千代の方をまっすぐに見て言った。

「おばちゃん、あのっ、こどもがシんでさびしいなら、香菜が、かわりにおばちゃんのこどもになってあげましょうか?」

 それを聞いて、美千代は一瞬戸惑ったようだがすぐに冷たく言い放った。

「いいから行きなさい。おじょうちゃん、あとはお願いね」

 美千代に言われ、彩夏は香菜に近寄りそっと手を握った。香菜は戸惑って祐一を見た。祐一はすぐに言った。

「いいからおねえちゃんと一緒に向こうへ行ってなさい。おにいちゃんは大丈夫だから」

 彩夏は祐一を見て力強く頷いて言った。

「香菜ちゃん、おねえちゃんと向こうで待っとこ? ね?」

 香菜は祐一と彩夏の両方を見比べながら、小さく「うん」と頷いた。

「美千代さん」

 多美山が声をかけた。

「うちの堤をおじょうちゃんたちの保護に向かわせてよかですか?」

「その婦警さんならいいわ。早く遠くに連れて行ってちょうだい」

 美千代はつっけんどんに言ったが、少しだけ目が潤んでいた。それは高熱のせいだったのか、香菜の言葉のせいだったかは、誰にもわからないだろう。堤は美千代の言葉が終わるや否や、駆け出して少女達の許に向かった。その後二言三言彼女らと話すと、香菜を抱きしめ、その後香菜と手をつないで彩夏と共に乗ってきた車の方に向かった。香菜は2・3度心配そうに振り向いたが、大人しく去って行った。それを見届けながら多美山は葛西に小声で言った。

「これからが気を抜けないぞ。いいか、最悪の場合、俺が合図をしたら、おまえはあの子ら二人をあの女から出来るだけ遠ざけろ、よかな!」

「はい!」

 多美山は葛西の返事を聞くと、また美千代の方を見て言った。

「さ、美千代さん、祐一君はあなたの前から逃げませんでした。彼の誠意は充分通じたとやなかですか?」

 美千代と祐一は約2mの距離を以って向かい合い、その横に5m近くの距離までなんとか近づいた多美山と葛西の2刑事が彼らを見守っていた。良夫は最初と同じ位置で、緊張して一歩も動けずにいた。

「とりあえず、そのナイフ……、危険やから捨ててくれんですか? もう紐を切ったから必要なかでっしょうが?」

 多美山は、まず凶器になりそうなものを排除しようと考えた。

「嫌よ。まだ安心できないもの」

美千代は拒んだ。多美山は彼女がまだ目的を捨ててないことを知り、次の作戦に移ろうと考えた。その時祐一が言った。

「おばさん。僕は今日、おばさんにきちんとあの夜のことを話そうと思って来ました。誤解を解きたかったからです。でも今になって、僕にはそれが出来ないことがわかりました。僕にとってもおばさんにとっても、それは辛すぎる現実だからです。だから、おばさんが元気になって、そしてまだそのことを聞きたいと思った時にお話しようと思います」

「誤解……?」

 美千代がつぶやいた。

「いいえ、わかってたわ。本当はわたしのせいでまあちゃんが死んだ……」

 多美山は首を振って優しく言った。

「息子さんが亡くなられたとは、あなたのせいやなかですよ。あれは、不幸な事故でした。そげん自分ば責めんでください……」

「違う! 私のせいなの……!」

 不意に美千代が叫んだ。

「私があそこに行かなかったら、まあちゃんに寂しい思いをさせずに済んだの。だから、まあちゃんが不良になっちゃったんだわ」

 妙に幼い口調だった。多美山たちは顔を見合わせた。

「あそこって、一体どこに行ったんです?」

 多美山はすかさずそれを聞いた。しかし、美千代はそれに答えずに続けた。

「あの方が、まあちゃんのウイルスを広げるように言ったの」

 その場の全員が、美千代の告白の意味がわからずに戸惑っていた。この人は一体何を言い出したのか? ただ、その告白が不吉な意味を持つことは明白だった。

「『まあちゃんのウイルス』ってどういう意味ですか?」

 要領を得ない美千代に対して、とりあえず葛西が質問した。

「まあちゃんの細胞から生まれたウイルスよ。今私の身体に中にいる……」

 相変わらず要領を得ない美千代の答えだが、葛西にはその意味がわかってぞっとした。

「美千代さん、ちがいます。ウイルスは確かに宿主の細胞を利用して増えます。でも、それは工場を丸ごと占領しているようなもので、出来たウイルスは宿主とは関係ありません。いったい誰がそんなことを……」

 しかし、美千代は意味がわからずきょとんとしていた。ついで多美山が聞いた。

「美千代さん、あの方って一体誰なんです?」

「私は、あの方の言われたとおりに……。でも、まあちゃんが死んだのに生きている祐一君が憎くて憎くて……、妹と一緒に笑っているのが悔しくて……」

 美千代はそういうと顔を覆った。ううっという嗚咽の声が漏れる。

「おばさん、違うよ!」良夫が祐一の後ろで言った。「おばさんは、西原君がどんなに苦しんだか知らないんだ。今だってここにいるだけで辛いのに……。僕だってっ」

 良夫はそこまで言うと、悔しくて涙があふれて言葉にならなかった。しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは、ほかならぬ美千代だった。

「あら?」彼女は不意に顔を上げると不思議そうに周りを見回して言った。

「すごい夕焼け…だけど、なんだろ? 雨の降る前の朝焼けみたいに不吉な、血のような赤……」

 それを聞いて、祐一は心臓が凍りつくほどぞっとし、眩暈で少しよろけた。

「西原君!!」

 良夫は祐一の傍まで走って行き、彼の腕を掴んで言った。

「同じだ、あのおじさんと!!」

 しかし、祐一は微動だにせず美千代を見つめている。彼はショックで動くことが出来なくなっていた。

「赤い……そんな」

 葛西は呆然としてつぶやきながら空を見た。空はいつの間にか雲に覆われ、日差しのカケラもなくどんよりと曇っていた。多美山も葛西の方を見て言った。

「こりゃあ、彼女は確実に感染しとぅと思ってよかな」

「はい」

 と葛西は答えた。『かも知れない』が確実となった。今まで話としてしか知らなかった感染者を目前にして、葛西は両手が汗ばむのを感じた。

「あーっははは……」

 美千代がいきなり嬌笑した。

「私はまあちゃんのためにやったつもりだったの……あの方のおっしゃるとおりにやったわ。だけど、私はあの方の仲間に殺されそうにな……て、だから、そいつの首を……て車を奪って逃げたの。多分、あの人、死ん…わ……」

「美千代さん、本当ですか? それはどこで!?」

 葛西が予想外の美千代の告白に驚いて尋ねた。美千代はそれに構わずに続けた。しかし、言葉はだんだん不明瞭になっていく。

「私は何…ためにあんなことをしてたのかしら? ま…ちゃんのため? それとも……けい様のため……? あははは、バッカみたい……。もう疲れた、わ……。もう、痛みも…ない……体が鉛…よう……」

 美千代は、ふうっとため息をついた。

「だから、もうお仕舞い……。ここで…らせるわ……」

 そういうと、美千代は祐一の方に向かい、ゆっくりとナイフを持つ右手をかざした。

「いかん! ジュンペイ、行けぇっ!!」

 その合図と共に、葛西は祐一たちの方へ猛然と走って行った。

 祐一には全てがスローモーションのように感じた。美千代がゆっくりとナイフをかざし、自分に近づいてきた。良夫がとっさに祐一の前に立ちはだかって、果敢にも盾になろうとした。しかし、祐一には何が起こってるのか瞬時には理解できなかった。ただ、漠然と思っていた。ああ、オレはここで終わるんかな? 香菜ごめん。約束守れんかも……。何でこんなことになったっちゃろ? 不思議やな。なあ、雅之……? その時、視界に葛西の姿がいきなり飛び込んできて、目の前の映像を遮断した。葛西は祐一と良夫の二人に向かって飛び掛ると彼らを抱いた状態で地面に転がりそのまま彼らの上に覆いかぶさった。葛西はその状態で多美山の方を見た。多美山は美千代の前に仁王立ちになっていた。

「多美さ…」

 葛西が多美山の身を案じ名前を呼ぼうとしたその時、多美山の後姿の向こうで血しぶきが上がるのが見えた。

「多美さんッ!!」

 葛西がかすれた声で叫んだ。


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