第3話:因果応報と完全なる決別
「……ノゾミ! 来てくれたんだね!」
駅近くのファミリーレストラン。
私が待ち合わせの席に着くなり、トシアキがどこか焦りをはらんだ表情で声を上げた。
半年ぶりに見る元夫の姿は、ひどく疲れ切っていた。
しわだらけのシャツに、ボサボサの髪。
以前の尊大な面影は、どこにもなかった。
「ノゾミ……急に呼び出してすまなかった。でも、どうしても君に伝えたい『朗報』があったんだ」
「朗報?」
私が冷ややかに問いかけると、トシアキはテーブル越しに身を乗り出し、さも親切そうな笑みを浮かべた。
「ああ! 君は不妊治療でずっと苦しんでいただろう? 自分の子どもを抱くのが、君の長年の夢だったはずだ。……実はね、今うちには赤ん坊がいるんだよ」
「赤ん坊……?」
「ああ。事情があって、実の母親とは離れることになったね。でも、これは神様が僕たちに与えてくれたチャンスなんだ! 君はこの子を自分の本当の子どもとして育てられる。君の『お母さんになりたい』っていう夢が、ここで叶うんだよ!」
トシアキは誇らしげに胸を張り、まるで私に恩でも売るかのような口調で言葉を重ねた。
「カオリのことなら気にしなくていい。あんな女とはもう縁を切った。君さえ戻ってきてくれれば、今日からでも君がこの子の母親だ。君にとっても、こんなに嬉しい話はないだろう?」
……呆れて、開いた口が塞がらなかった。
カオリに逃げられた惨めな事実をごまかし、「子どもを欲しがっていたお前のために、母親にしてやる」とでも言いたげな上から目線。
自分の都合で私を利用しようとしているくせに、さも「ノゾミの希望を叶えてあげる慈悲深い夫」を演じているのだ。
「……トシアキさん。カオリさんは『実の母親と離れることになった』んじゃなくて、あなた名義で借金を作って、ほかの男と失踪したんでしょう?」
トシアキの笑顔が、一瞬で凍りついた。
「な……何を……」
「お義母さんに認知症の症状が出て、ゴミ屋敷になった家で、あなたが育児と介護と消費者金融の取り立てに追われていることも……全部知ってるわ」
私はバッグから一冊の報告書を取り出し、テーブルの真ん中にトン、と置いた。
表紙に記された『探偵事務所』の文字を見た瞬間、トシアキの顔から急速に血の気が引いていった。
「な、なんでそれを……っ! あ、あいつは失踪したんじゃない! それに借金だって……っ!」
動揺したトシアキは、なおもすがりつくように、苦し紛れの言葉を連発し始めた。
「いいか、ノゾミ。僕は生まれ変わる! やり直そう! 過去のことは水に流して、もう一度、一からやり直せばいいじゃないか!」
「生まれ変わる……?」
「そうだ! 冷静になって将来のことを考えてみろよ! お前は子どもも産めないし、どうせ新しい男だっていないんだろ!? 今さら一人で生きていったって惨めなだけだ! 僕とやり直すのが、お前にとっても一番の幸せなんだよ!」
どこまでも自分勝手で、どこまでも上から目線の傲慢さ。
自分が地獄に落ちた今でさえ、私を「欠陥品」と見下し、救ってやるのだと自己正当化している。
あまりの浅ましさに、私は思わず「ふふっ」と鼻で笑ってしまった。
「……何がおかしいんだよ!?」
「いいえ。認知症の症状が出始めたお義母さんの介護に、誰の子どもかも分からない赤ん坊の育児、それにあなたが作った借金を一緒に返すだなんて……私、前世でいったいどれほど罪深いことをしたのかしらって思ったら、おかしくなっちゃって」
「な……っ!?」
「それにね、トシアキさん。勘違いしないで」
私はゆっくりと立ち上がり、哀れな元夫を見下ろした。
「私にはもう、新しい『家族』がいるの」
「は……? 男、か……!?」
「いいえ。小さくて、とっても愛くるしい女の子よ。……名前は、ココ」
「ココ……!?」
トシアキは一瞬あっけにとられたあと、吐き捨てるように鼻で笑った。
「なんだよ、それ……猫かよ! 猫なんて男の代わりになるわけないだろ! それにどうせ、人間より先に死ぬんだぞ!? そんなものにすがって虚しくないのか!?」
「……代わり、ね」
私は冷ややかな目でトシアキを見下ろし、どこか懐かしむように、優しく目を細めた。
「あなたに追い出されて、実家にも見捨てられて……真っ暗な底で震えていたとき、たまたま通りかかったペットショップで目が合ったの。ガラス越しに、小さな体を寄せて、まっすぐ私を見つめてくれた。あのとき、私……気づいたの」
「な、何に……?」
「この子は、私が守ってあげなきゃ生きていけないんだって。不安で、惨めで、消えてしまいたいと思っていた私が、初めて『この子のために立ち上がらなきゃ』って思えた。だから今の私があるの。ココが私を強くしてくれたのよ」
自分でも驚くほど、私の声には迷いのない力強さが宿っていた。
「確かに、ココは私より先に死ぬわ。でもね、だからこそ私は、この子の命に最後まで責任を持って、最期を看取ってあげるの。この子を幸せにするために、私は自分の足で立って、働いて、強く生きなきゃいけないのよ」
「な……っ」
「誰のことも愛せず、自分の都合で他人を踏みにじることしかできないあなたとは違う。私には、守るべき大切な命があるの」
トシアキは口を半開きにしたまま、あっけにとられて固まっていた。
「どうせすぐ死ぬ」「男の代わりにならない」と切り捨てた猫が、私をどん底から救い上げ、ここまで強くしてくれた。
そのことが、彼にはどうしても理解できないのだろう。
ただ呆然と私を見上げるばかりで、何も言い返してこなかった。
「……話は以上よ、トシアキさん」
私は最後に、氷のように冷たい視線を向けた。
「さようなら。二度と私の前に姿を見せないで」
私は静かに背を向け、一度も振り返ることなく店を後にした。
背後でトシアキが何かを叫び、惨めにすがりつこうとしていたが、その声は店内のざわめきとBGMの中に消えていった。




