第2話:「帰る場所」の喪失
「ノゾミ。いつまでそこにいるつもり?」
実家に身を寄せて三日目の朝。
リビングで小さくなっていた私に、母が冷ややかな視線を向けた。
「近所のおばさんに『ノゾミちゃん、大きな荷物持って帰ってきてたけど何かあったの?』って聞かれたのよ。私、恥ずかしくて顔が火照っちゃったわ。まさか出戻ってきたなんて言えないじゃない」
「……すみません」
父は新聞から目を離さないまま、苦々しそうに吐き捨てた。
「一度は嫁に出した娘だ。いつまでも面倒を見るわけにはいかん。子どもが作れなかったのは、お前の不徳の致すところだろう。家畜じゃあるまいし、飯だけ食って転がっているつもりなら、さっさと出ていって自立しろ」
言葉が出なかった。
つらい不妊治療に耐え、傷ついて戻った私を待っていたのは、実の両親からの侮蔑と拒待だった。
ここにも、私の居場所なんて最初からなかったのだ。
(期待した私が愚かだった……)
私はその日のうちに荷物をまとめ、逃げるように実家を飛び出した。
◇
都内の片隅にある、築三十年の古いワンルームマンション。
敷金と礼金を払うと、私の手元に残った貯金は心もとない額になった。
昼は派遣の事務仕事、夜は自宅でデータ入力の内職をこなし、ひたすらキーボードを叩く毎日。
孤独感と経済的な不安が、夜になると胸を強く締め付けた。
だが不思議と、「あそこに戻りたい」とは思わなかった。
そんな暮らしを始めて、半年ほどがたったある日の深夜。
静まり返った部屋に、スマホのバイブ音が低く響いた。
画面を見ると、連絡先から削除したはずの元夫・トシアキからメールが届いていた。
『ノゾミ、起きているかい?
君がいなくなってから、この家はまるで光を失ったようだ。
今日、仕事帰りにふと立ち寄った花屋で、君の好きなカスミソウを見かけたよ。
思わず手に取ったけれど、君に贈ることはできないのだと気づいた瞬間、胸が引き裂かれるような苦痛に襲われた。
君との思い出がよみがえるたび、僕は悲しみに押し潰されそうになる。
もう一度、君とやり直せないだろうか。
冷たくしてすまなかった。
戻ってきてほしい』
「……は?」
思わず声が出た。
自分から離婚届を突きつけ、「役立たず」「邪魔だ」と罵倒して追い出した男が、いったいどの口でこんなポエムを紡いでいるのか。
気持ち悪さで背筋に寒気が走った。
だが、怒りと同時に違和感が込み上げてきた。
トシアキは、プライドの塊のような男だ。
自分が悪かったと、素直に認めるはずがない。
(……何か、ある)
本当に復縁を望んでいるわけではない。
私を利用しなければならない『何か』が、あの家で起きている。
私は内職で稼いだわずかなお金と残りの貯金を確認すると、迷うことなくメールの画面を閉じ、ある場所に電話をかけた。
以前、チラシを見て連絡先を保存しておいた探偵事務所——興信所だった。
◇
数日後。
興信所から一冊の報告書が郵送されてきた。
震える指で封を切り、そこに記された文章と写真に目を通した私は、思わず息をのんだ。
『対象者の現状について』
そこに書かれていたのは、あまりにも哀れな事態だった。
トシアキの浮気相手だったカオリは、私をあざ笑うかのように、あの家に転がり込んできた。
しかし、どうやらトシアキのほかにも男がいたらしい。
カオリはトシアキ名義で借金を作ったうえ、出産直後に生まれたばかりの赤ん坊を家に置き去りにし、その男と失踪していたのだ。
カオリの失踪、取り残された赤ん坊、そしてトシアキ名義の借金。
一連の出来事がこたえたのか、義母には認知症を疑わせる症状が現れ始めていた。
トシアキは仕事の傍ら、泣き叫ぶ赤ん坊の世話と義母の介護を同時に抱え込み、育児も限界に達しかけているという。
家の中はゴミ屋敷と化し、消費者金融からの取り立ても連日のように押し寄せていた。
「……なるほどね」
ポエムメールのカラクリが、すべて解けた。
彼は私に未練があるのではない。
介護と育児と借金という地獄から逃げ出すために、無料で使える「都合のいい家政婦」として私を呼び戻そうとしていたのだ。
あんなに私を「子どもも産めない役立たず」と蔑んでいたくせに、自分が落ちぶれた途端にすがりついてくる。
(どこまで浅ましい人なんだろう)
ふふっ、と乾いた笑いが口からこぼれた。
胸の中にあった悲しみや迷いは、完全に消え去っていた。
残ったのは、冷たいほどの決意だけだ。
私はスマホを取り出し、トシアキのポエムメールに対して一言だけ返信を打ち込んだ。
『私も話したいことがあります』
単純に着信拒否をすれば、それで済むのかもしれない。
だが、なりふり構わなくなったトシアキが、私の職場やマンションを突き止めるかもしれない。
その前に、決着をつけておくべきだろう。
それに、どん底に落ち、私にすがることしかできなくなったトシアキの姿を、一目見ておきたい。
そんな暗い情念にも似た何かが、心の奥底に湧き上がるのを自覚した。




