第1話 3年目の妊活
「……また、ダメだったの?」
氷のように冷たい声が、朝の静まり返った台所に響いた。
私は手にしていたクリニックの検査結果を、ぎゅっと握りつぶしたくなる衝動に必死で耐えた。
結果は陰性。
不妊治療を始めて三年。
何度目になるかも分からない、敗バックの知らせだった。
「……すみません、お義母さん。今回も、ダメでした」
蚊の鳴くような声しか出なかった。
視線を床に落とすと、義母が履いているスリッパの先が見えた。
「ハァ……やっぱりね。最初から期待なんてしてなかったけど。いったい、いくらお金をかければ気が済むのかしら。どうしてトシアキは、子どもも産めないような女と結婚したのかしらね」
言葉のナイフが、容赦なく私の胸をえぐる。
息が詰まり、指先から血の気が引いていくのが分かった。
膝がガクガクと震え、立っていることさえつらかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
私はただ、頭を下げることしかできなかった。
私が産めないせいだ。
私が、トシアキさんに自分の子どもを抱かせてあげられないから。
罪悪感と自己嫌悪で、視界が涙に滲んでいった。
◇
その日の夜。
リビングには、吐き気がするほど重苦しい沈黙が立ち込めていた。
夫のトシアキは、テレビの音量をやたらと大きくしたまま、ソファに深く腰掛け、スマホをいじっていた。
私と目を合わせようともしない。
「トシアキさん、あの……朝のことだけど——」
私が意を決して話しかけた、その瞬間だった。
バサッ!
「……っ!?」
テーブルの上に、一枚の紙が叩きつけられた。
黒い太字で印刷された文字が、私の目に飛び込んでくる。
『離婚届』
頭の中が真っ白になった。
「ト、トシアキさん……これ、どういう……?」
「見れば分かるだろ。離婚だ」
トシアキはスマホから目を離さず、心底面倒くさそうに吐き捨てた。
「お前が子どもを作れないからだ。だから、ほかの女に産んでもらうことにしたんだよ」
「え……? ほか、の……女……?」
「ああ。もう相手も決まってる。お前と違って若くて健康な子だ。すでに俺の子を妊娠してる」
……あくびでも噛み殺しそうなほど、軽い口調だった。
不倫。そして妊娠。
私が毎日痛い注射に耐え、薬の副作用による吐き気に苦しみ、精神をすり減らしながら治療に通っていた間、この人はほかの女と子どもを作っていたのだ。
「そんな……嘘でしょう……? 私、ずっと頑張って……」
「頑張った結果がこれだろ? 三年間も無駄金使わせやがって。これ以上、お前みたいな役立たずを養う余裕はないんだよ」
トシアキは立ち上がり、冷酷な目で私を見下ろした。
「慰謝料も財産分与もなしだ。今までかかった治療費でチャラにしてやったと思え。文句があるなら出ていけ。……いや、今すぐサインして出ていけ。カオリと新しい生活を始めるのに、お前がいると邪魔なんだよ」
——邪魔。
その一言が、私の頭の中でカンと音を立てて弾けた。
(あぁ……そうか)
不思議なことが起きた。
さっきまで胸を支配していた激しいショックと悲しみが、一瞬でスーッと引いていったのだ。
代わりにやってきたのは、氷のように澄み渡った『冷静さ』だった。
涙も出ない。悔しさすら湧かない。
ただ、「この人たちに何を言っても無駄だ」という圧倒的な事実だけが、目の前に横たわっていた。
「……分かりました」
「あ?」
「サインはします。でも、着替えや身の回りの荷物をまとめる時間が欲しいです。明日一日だけ、猶予をください」
私の静かな返答に、トシアキは拍子抜けしたような顔をした。
「……けっ、しぶとく居座るなよな。明日の夜までに全部まとめて消えろよ」
トシアキは鼻で笑うと、背を向けて自分の部屋へ消えていった。
◇
翌朝。
私は離婚届に署名し、まとめた荷物を二つの大きなスーツケースに詰め込んだ。
それを引いて玄関に向かうと、義母が立ちふさがっていた。
「あら、本当に自分の荷物だけ持って出ていくのね。最後まで役に立たない嫁だったわ。うちの家名を汚したこと、親にもしっかり謝りなさいよ?」
ネチネチと嫌味を重ねる義母。
以前の私なら、泣きながら謝罪していたかもしれない。
だけど今の私には、その声すら遠くの雑音にしか聞こえなかった。
(もう他人なんだから、気安く話しかけないでほしいな……)
私は義母の顔を見ることすらせず、一言も発しないままドアを開けた。
背後で義母が「なによ、その態度は!」と叫んでいたが、ガチャリとドアを閉めると、その声も遮断された。
秋の冷たい風が、私の頬を撫でる。
住み慣れた家を離れ、私は足早に駅へと向かった。
行く当ては一つしかない。
実家だ。
事情を話せば、きっと父も母も味方になってくれる。
つらかったねと、抱きしめてくれるはずだ。
そう信じていた。
◇
約数時間後。
私は懐かしい実家のドアノブに手をかけた。
鍵は開いていた。
「ただいま……お父さん、お母さん」
静かに扉を開け、玄関の土間に立つ。
奥の居間から、両親が出てきた。
「ノゾミ……? どうしたの、そんな大きな荷物を持って……」
母が驚いた顔で手を伸ばしかけた。
しかし、私が「トシアキさんと離婚することになったの」と告げた瞬間——母の手が、ぴたりと途中で止まった。
事情をかみ砕いて説明する間、父と母の表情から急速に温かみが失われていくのが分かった。
「……子どもが、できなかったのか」
父の低い声が響く。
そこにあったのは、傷ついた娘への同情でも、理不尽な夫への怒りでもなかった。
見下すような、冷ややかな視線。
そして、「世間に顔向けができない」と言わんばかりの、隠しきれない強い羞恥の色だった。
「……ノゾミ。お前、嫁ぎ先で何をしてきたんだ」
父の冷酷な言葉が、土間に立ち尽くす私の頭上に重く、重く降り注いだ。




