34・小川の理不尽
朝、階下に降りればジンの姿は無く、眠そうな母だけがいた。え…まさか徹夜で…ナニか…?
「おしゃべりしてただけよ」
俺の顔を見て、母が苦笑いする。
「ほんとか」
「待ちに待った離婚調停中なのよ?不利になるようなこと、するワケないじゃない」
「ほんとか」
まぁ…大人だしな。というか調停中でなければ、することもアリだったのか…
再び鳥肌に襲われそうになり、コーヒーを飲み干す。
「ふふ。今度、まつりちゃんにいつもジンくんがしてあげてる美容マッサージ、してもらうのよ」
「は…?美容マッサージ…?いつも…?ジンくん…?」
「ハーレム経験者ってすごいのねぇ〜」
もうすでに飲み干したマグカップをもう一度飲み干す。いろいろな動揺からか、手が震えている。
「マチハルもやってもらう?覚えておけば、結婚した後まつりちゃんにしてあげられるわよ」
「…母上、天才か」
「ほほほ。男の子って単純でいいわね」
それまでのハードルは限りなく高いが、な!
「妻には尽くしておくべきよ。良い子なら、必ず返してくれるわ」
「尽くせば尽くし返される…」
一瞬で妄想劇場が幕開けようとしたが、母のニヤケ顔が癪に障り、止める。ジンの影響かと思うと余計にイラっとする。今日が出社日で良かったと心底思った。
城野先輩との約束は10時だが、早めに出社する。情報の先輩方に話をしなければ。
情報部には部室内に仮眠室がある。ウチは自社サーバで、メンテナンスも定期的に自前でやるため、夜勤が発生する。夜勤は基本的に週末だが、自社で全て賄う都合上、突然の徹夜残業が必要な事態もしばしばある。最近は陰険なサーバ攻撃も増えてきた。この人数で回せているのは、神技に近いものがある…。
情報部内をサッと見渡したが、先輩達の姿は無かった。仮眠室か…。
覗いたところ、ベンチソファの上に屍が二つ。しばし合掌する。
「おはようございます。コーヒーとコーラ、差し入れです」
屍が動きだす。ゾンビの顔色で、先輩方は手だけ伸ばした。
大山田先輩には「命の水」コーラを、河野先輩には「ガソリン」ミルクコーヒーを手渡す。
「小川主任…君の参戦を待っていた…」
大山田先輩…今から裏切るのデスすみません。
「実は、今から総務部へ向かいます。ひょっとすると戻って来られないかもしれません」
大山田先輩がゾンビから人間に戻る。
「なんですと…別事件ですかな?」
河野先輩も、すでに目が覚めて…糸目だから分かりにくいが。
この二人に明かして良いのか…すでに勅使河原常務サイドの可能性もあるが、違うかもしれない。だがここで躊躇って、知らぬ間に取り込まれたら困る。
「今後、個人の機密情報開示の依頼が来ると思います。ですが、誰から来るかが大問題になります。依頼が来たら、まず僕に教えてください。」
先輩方は神妙な顔付きで頷く。
「なるほど…すると労基への提出データは、我々で対応するしか無さそうですな」
「そうなったら、申し訳ないですが…」
大山田先輩と河野先輩は素早く目線を交わす。なんだ…?
河野先輩が口を開く。
「小川主任、労基対応を全て請負うことは吝かではありませんが、かなりの負担となります。我々はこの負担に耐え得るための原動力、いわばブースターエンジンへのガソリン、いわば精神的ドーピングを要求したいと思います」
河野先輩の言葉に、覚悟を決める。残業代上乗せか、ノーカウントの有給休暇か……。この難局を乗り切るためなら、社長へ直談判も辞さない…!
「どのようなことでしょうか」
大山田先輩が咳払いした。
「小川主任……最近、総務の黒猫嬢と良い感じだそうですな」
心臓の脈拍がひとつ飛んだ。
「ご…ご存知でしたか」
「率直にお聞きしたく。どんな仲ですかな?どう想っておられるのか」
これは…キツイ。
「素面でお話しするのは…」
「我々には何の問題もありませんな。推しを語るのに酒精など不要」
「同感です。我々には脳内麻薬があります」
「河野氏、天才ですな」
つまり、ここを切り抜ければ業務が回り出すということか。
「僕の…片思いです」
あれ?これ昨日も言わされた気が…。
「黒猫嬢は他部署からも人気がありますが、現状は高嶺の花扱い。いわば競争相対はスタンド席で指を咥えている状態。
小川主任はすでにスタートラインに立っているとお見受けしますが、どうされますか」
「どう…とは」
「我々は要求しますぞ。小川主任は黒猫嬢に思いの丈を告白することを!」
「ええっ!?」
「そして逐一の報告を要求します!」
な、なんだって!?
「これは…罰ゲーム的な何かでしょうか?」
「いや、単なる八つ当たりですな」
「やっかみとも言います」
「まぁ、基本的には応援してますぞ」
「基本的には」
先輩方は疲れでネジが飛んだのかもしれない…。いつもの状態に戻れば、無かったことになるかもしれない。問題は、いつ通常運転に戻れるか…。
「そしてもちろん、期限付きですぞ」
「ええっ!?」
「期限は労基への提出データ作成が完了するまで。つまり、あと二日以内です」
「ハードすぎませんか…?」
「ミッションアンインポッシブルですな!」
「やれば、できる!はず!」
なるほど…先輩方のストレス発散に俺の恋心が弄ばれるというわけだ。ひどくね!?
「時期尚早により拒絶や拒否となった場合は…」
「その時は傷心を癒すためのお仕事を大量に用意しますぞ。やることは無茶苦茶ありますからな!」
「無論、我々もご一緒します」
「成功した場合は…?」
もはやヤケクソで言ってみる。
「その時は祝福しつつ」
「悔しいから仕事を押し付けますな」
どっちに転んでも仕事まみれ!
「分かりました…では労基対応の件、よろしくお願いします。
それと機密情報開示依頼の件は、内密に願います。野々原さんと谷村さんには僕から通達しておきます」
「「了解!」」
ノリノリの先輩方が頼もしくも忌々しい。だが見方を変えれば、チャンス…なのかもしれない。
総務部…行くか…。
次回、総務部にラスボス来たる。あの公園でマツリとマチハルは、核心に迫れるのか?




