よもぎが露
最終話です
『年月は過ぎ変はりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひ出づれば、心地もまどひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、またさだかにもおぼえず。人々はみなほかに住みあかれて、ふるさとに一人、いみじう心ぼそく悲しくて、ながめ明かしわびて、久しうおとづれぬ人に、
茂りゆく蓬が露にそほちつつ人に訪はれぬ音をのみぞ泣く
尼なる人なり。
世の常の宿の蓬を思ひやれそむきはてたる庭の草むら
(年月は過ぎて移り変わってゆくけれど、夫を失った時の悪い夢のような気持ちを思い出したりすると、心乱れて、目の前が真っ暗になる気がするので、その時の事は、今でも定かには思い出せない気持ちでいる。今では人々は皆他の所に住み別れてしまい、長年暮らした家に住むのは私一人となり、とても心細く悲しくて、物思いのうちに夜を明かすのも辛くて、久しく便りをいただけずにいる人に、
茂り広がる蓬を濡らす露にひどく濡れながら
人に訪れてもらえぬことに声を出して泣くばかりです
尼となった人の返歌。
蓬と言っても俗世のご自宅でのこと。考えてみてください
世を捨てて人に背かれた私の住む庭の草むらを。もっと悲しいものですよ )
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翌年、七郎君も元服し、四郎君の通う邸に仕えるようになった。五郎君も結婚し、六郎君もいずこかの姫のもとに通っている。八郎君は名を定快とあらため、安楽寺へ入る事となった。
安楽寺は西の果て筑前にある寺なので、基円が定快を迎えに来てくれる。この寺は我々の先祖である菅原道真公を祭った寺なので、私達菅原家の人間にとって特別な寺である。遠い地にある安楽寺だが、基円は「別当」と言う貴族社会と寺をつなぐ役目がら、時折都に上京しているのだ。
基円は都に来るたびに私に気を使って、暮らしに必要な物などを用意してくれる。遠い地に離れているのでめったに会えないが、その分細やかに私の事を考えてくれる。
兄の定義も出家して山寺に入った身ではあるが、私に不自由のないように目を配ってくれる。しかし遠くない所にいると言っても、兄には多くの妻子がいる。特に出世のかかっている子供達には、丁寧に気を配る必要があるだろう。私には物質的な援助は手ぬかりなく行ってくれるが、顔を見せる事は滅多に無い。会ってもそれは他の用事のついでに、ほんの僅かに声をかける程度だ。それが兄にとっての精一杯なのだろう。
「おお、この子が最も幼い甥ですか。なかなか賢そうな顔立ちだ」
満足そうな基円に内気な定快は恥ずかしげに、それでもハキハキと挨拶をした。
「活発な兄達に囲まれ、押され気味だったので、少し気が弱くて」
私は僧の厳しい修行を心配してそう言ったが、基円は、
「大丈夫ですよ。入門時は分からぬ事ばかりで戸惑うのは誰もが同じです。私も初めて寺に入ったのはこのくらいの年頃でした。多くの兄弟に揉まれて育ったのなら、きっと私よりもしっかりしているでしょう。御案じ召されるな」
基円がそう言って定快に微笑みかけると、定快も、
「はい。大丈夫です、叔母上!」
と、元気よく答える。その表情はまだまだ無邪気で、この子をこれから手放すのが何とも切なくなる。私はなんとなく基円が「ちい君」と呼ばれていた頃を思い出す。さすがに今の基円に当時の面影はない。年寄りと言うのはすぐに昔の事ばかり思い出す物らしい。
「くれぐれも、この子をよろしくお願いします」
私はそう言って深く頭を下げる。あの幼かったちい君に、今はこうして自分の甥の行く末を頼んでいるのだ。流れた時の長さには驚かされるばかりである。
これで定快を送り出したら、兄の足は一層この邸から遠のくことだろう。小式部の君は人目を憚って寺から一歩も出てこない。小弁の君も今は老いて紀伊の君の家族と邸で暮らしているが、思うように動くことはできなくなった。二人とも時折かわす文のやり取りだけの交流となってしまっている。私は今、再び孤独になろうとしていた。
定快が去ってしまうと、私はひどく気が沈んでしまった。もうあの子に今生で会う事はないだろう。いや、定快だけではない。若い人たちは皆、自分の生きる道を見つけて巣立ち、身の周りの人たちは自分同様に老いてしまった。気づけば私はまた病み付いてしまっていた。
今度こそ俊道が呼んでくれる。阿弥陀仏様がお迎えに来て下さる。そう期待したのに反して、私はまたしても病から持ち直してしまった。病を何度も繰り返す私なのに、意外にもこの身は親に似て、命長らえる運命のようだ。だからと言って若い身体に戻れるわけでも無いのだが。
最近は若い時の事ばかりが頭に浮かぶ。俊道と子供たちとの幸せだった日々が思い出される。
しかし、その良い思い出の後には俊道を失った悲しみが今も胸を締め付ける。特に俊道を向こうの世に見送った日の事など、この世が真っ暗になったような心地で、まるで悪夢としか思えなかった。いや、今だってその悪夢が続いている。俊道のいない世をこうしていつまで生きながらえなければならないのだろう?
それでも甥達が邸にいた時は気を張っていて、それなりに暮らしていられた。今、こうして老いた一人身となって広い邸に臥せっていると、眠れぬ夜が増え、ひどく心細い思いが胸の中にしみじみと満ちて来る。それは「あはれ」と言うにはあまりにも現実的で、切実な思いだった。
私は庭に茂る蓬を見ながら思う。
阿弥陀仏様。なぜまだ私をお迎えに来て下さらないのですか?
俊道。どうして私を早く呼んではくれないの?
あなたは本当に向こうの世に行ってしまったら、私の事を忘れてしまったの?
あなたにとって私は、短い現世を一時過ごすための相手にすぎなかったというのかしら?
分かっている。こんな風にいつまでも俊道への情にしがみついて、煩悩を断てずにいるから御仏は私を救って下さらないのだ。この執着心は以前の「花紅葉の心」以上のものだ。これほど強い執着心に駆られた魂を、どのような神仏が救えると言うのだろう?
私は病が癒えても、物思いに沈むばかりの日をすごすようになっていた。
「尼君様。そのように沈まれてばかりいては、私達も見ていて辛うございます。どうでしょう。あちらの尼様に御遠慮して贈るのをお見送りになったあの日記を、また続けて書かれてはいかがでしょうか?」
「お気に入りの女房」がぼんやりと庭を眺める私にそう言って来た。
「……あの日記は、もう他に書くことはないわ」
私はそう答える。あの日記は出家を果たしても亡き夫の親類に気を使わなくてはならない小式部の君に遠慮して、何となくそのまま手つかずとなってしまっている。それに今は何を書いても自分の愚痴になりそうだ。
「でも、小弁の君や小式部の君にお便りは出した方がいいわね。病が癒えたことを自分の筆で伝えなくては」
私は久しぶりに筆を取った。女房は何となく嬉しそうにしている。この人はいつも私が筆を取るとこんな顔をするのだ。何故かと尋ねると、
「昔から、筆を手にされて考えを巡らせていらっしゃる時、とても良いお顔をしますから」
と言う。そして、
「気づいていらっしゃいましたか? 殿様は尼君様がそうしていらっしゃる時に、私以上に嬉しそうな顔をしていらっしゃったのですよ」
気付かなかった。そういう時は私は「花紅葉の心」の世界に没頭していて、俊道や我が子の事でさえも、一瞬忘れてしまっていたのだ。今はかえって俊道の事を思い出すようになってしまっているが。
「殿様だけではありません。姪の方々も、姫君方も、甥御様方もそういう時の尼君様に好意を持っておいでだったと思います。こう言っちゃなんですが、私のような者でもそういう時の尼君様には、まるで夢見る姫君を見守るような気持にさせられてしまうんです」
「そんなに子供じみて見えるの?」
私は苦笑するが、女房は、
「ええ! ずっと若くお見えになります。遠くを見つめる目は輝きを増して、背筋はぐっと伸びられて、ほんのり僅かに頬が染まって。長年お傍で尼様を見て来た私も、いまだにハッとする時があります。ですから尼君様が筆を手にされると嬉しくなるんです」
若く、ね。でも現実の私は醜く老いて、立ち歩く事も牛車に乗る事も難しくなっている。苦労しているであろう自分の息子の、顔を見に行ってやることすら出来ないのだ。
それでも私は小弁の君には、病が癒えてこうして文が書けるようになったと書いた。そして彼女が息災であることを祈る言葉を添える。
だが、小式部の君に文を書こうとして、私は少しばかり本音をもらしたくなった。あの明るい彼女に甘えたくなったのだ。彼女は人から余計な事を言われるのが煩わしがって、文も頻繁には贈れなくなっている。私からのこの文も久しぶりのものだ。だからこそ彼女に何かを吐きだしたくなったのだろう。
私は自分の庭に夫の思い出の蓬を植え、それが今では庭中を埋めていることを書いた。もう阿弥陀仏様でなくてもいい。亡き夫が思い出の蓬の葉を踏みしめながら、私を迎えに訪れて欲しいと願っていると書く。そして、
茂りゆく蓬が露にそほちつつ人に訪はれぬ音をのみぞ泣く
(茂り広がる蓬を濡らす露にひどく濡れながら
人に訪れてもらえぬことに声を出して泣くばかりです)
の歌を添えた。蓬の露に濡れながら、俊道が私を迎えに訪れぬことに涙するばかりだと。
蓬が生えると言うのは、荒れて人が訪れなくなった邸の事を指す。孤独な暮らしぶりを表すための表現でもあるのだが、私は孤独の中で亡き夫にさえ忘れられてしまったわが身を嘆いていると言いたかったのだ。そして使いの者に約束の日記を贈ってもかまわないか尋ねさせた。
小弁の君からの返事は、
「私は無事に暮らしています。何よりこれまで宮仕えで精一杯の事をしてきたので、その充足感のおかげで満ち足りた心で過ごせるのが、ありがたいことだと思っております。たとえ明日、我が命を終えようとも、私の残した歌や物語、何よりあの高倉殿で一宮様の素晴らしさを世に知らしめるお手伝いが出来た誇りがあります。これがあるおかげで私は現世に未練はありません。良い人生だったと思います。あなたにもまだ時間はあるでしょう。そういう誇れるものをお残しになることをお勧めしますわ」
と言う言葉が綴られていた。宮仕えに全力で生きたあの人らしい文だ。私にはそれがないから夫の迎えばかりを待たなくてはいけないのかもしれない。
そして小式部の君からは短く、
「お気弱りしていらっしゃるようですね。でもあなたはご自分の邸にいらっしゃられる身。誰に煩わされる事も無く、したい事が出来る筈です。日記は私も楽しみにしておりました。是非読ませていただきたいわ」
と書かれた文に、
世の常の宿の蓬を思ひやれそむきはてたる庭の草むら
(蓬と言っても俗世のご自宅でのこと。考えてみてください
世を捨てて人に背かれた私の住む庭の草むらを。もっと悲しいものですよ)
の歌が添えられている。小式部の君の境遇に比べれば、私の孤独など取るに足りないものなのかもしれない。現世と俗世を「世の常」に掛け、私の「蓬」に「草むら」と返し、人々に背かれる悲しみと、自らが出家して人々に背を向けていることを「そむきはてたる」と表現する上手さに、さすがは小式部の君と感心する。私は敬意を表して日記の最後に彼女との連歌を書き添えた。そして自分の使用人に彼女のいる寺に届けさせた。
「私が物を書くのはこれが最後でしょう」
と一言添えて。
すると数日で小式部の君から文が届いた。人の噂を気にしてあまり頻繁に文を出さない人がどうした事かと驚いてしまう。まさか良くない知らせではと胸がとどろく。
だが文の中身は私の日記を絶賛する言葉だった。どうしても文を出さずにいられなかったと。
「何故あなたはこれほどのものが書けるのに、これが最後などとおっしゃるんです?
特に旅の描写はあなたにしか書けないようなものばかりではありませんか!
旅先での歌など素晴らしいものばかり。私はこれを世に広めます。誰が出しゃばりと非難しようとかまわないわ。これを世の中に出さずにどうしていられましょうか?
それにあなたは私の返歌をちっとも理解していらっしゃらないのね。あなたは物語を書くべきです。書かなくてはなりません。人々のためにしなくてはならないことを、あなたはやりきっていないから、俊道殿は御迎えに来ないのです。あなたが本当に俊道殿に迎えに来てもらいたいなら、ご自分のやるべき事をしなくてはなりません。それこそがきっと、あなたの功徳となるのでしょう。
私はすでにこの日記を書き写しています。まずは小弁の君に読んでもらいます。彼女もこの日記を広めてくれるでしょう。彼女は娘の紀伊の君から宮家の方々につてがありますからね。必ずこの日記は人々が認めることでしょう。あなたは書かなくてはいけません。人々の期待を裏切らないように」
私は驚いた。ちょっとした慰めにしてもらおうと思って書いた日記。それがこんなことになろうとは。それから間もなく小弁の君からも称賛の文が届いた。やはり紀伊の君がさらに日記を宮家や高貴な方々に広めているらしい。さすがは『蜻蛉日記』を書いた方の身内と、人々が褒めて下さっていると言う。
唖然とする私に女房は、
「ほら、私の申し上げた通りではありませんか」
と、少し意地悪そうにニヤニヤしている……。
私は人々の期待に応えたくなった。いや、やはり私自身が何かを成し遂げたかった。全力を尽くしたいと思った。今度こそ、思い切り書いてみたい。誰のためではなく、自分自身のために。小弁の君のような充実感を持って、俊道に迎えてもらうために。
私は筆を取り、物語の題名を書いた。『みつのはまゝつ』と。
数年の時が流れた。
定義は亡くなった妹の可愛がっていた女房と共に、妹の書いたものを目の前に並べていた。『御津の浜松(浜松中納言物語)』『夜半の寝覚め』『みづからくゆる』『朝倉』。そして『更級日記』。
「よくこれだけ書ききったな。これで妹も悔いはないだろう」
定義は一冊づつ手に取りながらしみじみとそういう。女房は頷きながら『更級日記』の最後の空白部分に、筆で何かを書きつけていた。
「何を書いている?」
定義は書かれた文字を覗きこんだ。
『ひたちのかみ、すがはらのたかすゑのむすめの日記成。
傅のとのゝ、はゝうへのめひ也。
よはのめざめ、みつのはまゝつ、みづからくゆる、あさくらなどは、
この日記の人のつくられたるとぞ』
女房は丁寧にそう書きこんでいた。
「尼君様がどのような物を書かれたか残しておきたくて。この日記は私の宝物ですから」
「お前は本当に妹に最後までよく尽くしてくれた。妹もきっとお前に看とられて満足だっただろう。私からも礼を言いたい。ありがとう」
「いいえ! そんな、もったいない。私こそずっとお妹君様にお仕えさせていただけて、幸せでございました。私も心おきなく尼として精進の日々を送る事が出来ます。ありがとうございました」
女房はそういいながら頭を下げる。
「それにしても、もう尼君様のご葬儀も忌籠りも終えて、今日は四十九日。早いものでございますね」
「時の流れなどあっという間さ。人の人生も同じだろう。だから人はこの世に生きた証しを残せるよう心を尽くすのだ」
「そうですね。尼君様は人生の最後にそれを成されました。きっと、御満足だった事と思います。後は私達が尼君様の御心を多くの人にお伝えしないと」
だが、定義は軽く笑って首を横に振った。
「妹はそんな大げさな事は望んでいないさ。妹が書いたものが良いと思われれば、放っておいても人々は広めて行く。物語とはそういうものだ。お前はお前で現世に生きた証しを残せばいい」
すると女房は、
「私の生きた証しは、尼君様の御世話を出来たことです。私はもう証しを残しているのですよ。尼君様の書いた物語が私の生きた証しになるのです」
と言う。定義は思う。まったく使用人と言うのは仕える主人に似るものだ。妹もいつも家族の事ばかり気にして、結婚も遅れ、宮仕えもそこそこになり、人生の本当の最後になって、ようやく思うがままに自分の望むことを成し遂げた。それでも妹は幸せだったのだろう。そして、この女房の幸せは妹に尽くし、今も尽くし続けることなのだろう。
「思うがままにするが良い。私もお前にしてやれるのは、それしかないようだしな」
女房は穏やかに微笑んだ、その手には『更級日記』がしっかりと握られている。
この日記は妹が生きた証であり、それを見守った者たちの生きた証しでもあるのだろう。そしてその中の一人に、私も入ることになるだろう。
私は自分の望んだ博士の地位を手に入れた。記録にもそれは残されるはずだ。だが、それはしょせんただの記録。いつまで人々の記憶に残るかは分からない。
だが、妹の書いた物語は人々の記憶に残り続け、語られ続けることだろう。あの『源氏物語』はいまだに多くの人々に人気を博している。妹の物語もそうやって人に語られていくだろう。
妹はごく平凡な女人であった。
そして幸せな女であった。物を書き、歌を詠み、多くの人々を幸せにする女であった。
多くの高き位を持つ男に負けない、素晴らしい女だっただろう。
菅原孝標の娘は、稀なる素晴らしい女人。
そして私の誇れる妹である。
出来るなら私は、妹の書いたものが百年も千年も人の記憶に伝えられる事を願いたい。
妹はそんな事は、望まないだろうが。
完
主人公の甥達の名前は一応わかっているようですが、一郎、二郎、三郎……と順番に名が連なっていても、当時はそれが生まれた順や、年齢順とは定まっていないようです。色々な立場や身分の妻が多くいたわけですから、その状況によって呼ばれたりもする訳です。ですからこの甥達を私は名前ではなく、四郎君、五郎君、六郎君、七郎君としたのです。
そして僧となった定快ですが、当時は僧となると俗世とは違う人間として扱われるので、僧籍の人は系図などでも一番最後に名が書かれたりするので、末っ子であるかどうかは分かりません。これは話の流れでそうしただけなので、子供の順は生年が推測されている藤原相任の娘の子、是綱(1030-1107)と、藤原実方の娘の子、在良(1041-1121)が分かるだけで、他は不明としか言いようがありません。
作者の甥達は母親の身分がしっかりしている人達は、それ相応の身分になったようです。
一番高い地位に就いたのが在良で、父と同じ文部博士となっています。次が是綱で相模の守、正四位下。藤原在良の娘の子、忠章も従五位下と、五位の位を賜わっています。
母親の名が分からずに身分を得ているのが清房で、相模守、従四位下となっています。
後の三人は五位の位さえなれずに終わったようです。その中には貴族の宮廷社会内での系図(尊卑文脈)にすら名が無く、個人の系図(久松家譜)によってその名が見えるような人もいます。
ですから現実の貴族の妻子は、どのくらいの数がいるかは分かりません。この話は私が調べられる範囲で創作しました。なお、安楽寺は「天満宮安楽寺」の事で、現在の「太宰府天満宮」の事。この寺は菅原家にとって道真公を祭る重要な寺でしたから、この寺の別当(長官)には代々菅原家の人間が引き継いで行きました。そのために基円も定快も別当を務めたのです。
ちなみに主人公が最も気にかけたであろう息子仲俊は、定義の後見のおかげか従五位下を賜わっています。貴族として体裁の整う地位にはいたと言う事でしょう。
主人公が書き残したもので、現在でも分かっているのはこの『更級日記』と『浜松中納言物語』『夜半の寝覚め』だけで、奥書に記されている『みづからくゆる』『あさくら』は失われてしまっています。その奥書も初めから書かれていたのか、いわゆる底本と呼ばれる現在残っている本に後に書き足されたものなのかは分かりません。
ですからこれらの物語を書いたのが更級日記作者かどうかは不詳ですが、『浜松中納言物語』の夢の表現や、日本風に解釈されているとはいえ、唐国に渡り、唐風の文化の描写を描いているなど、漢詩などの興味を強く持った更級作者にふさわしい表現なども多く、おそらく奥書の内容は正しいのではないかと言うのが一般的な見解のようです。ただ、残された物語も完全なものではなく、冒頭部分や途中に紛失したと思われる部分があるので、発見が待たれています。
おかげさまで無事に完結出来ました。
更級日記から勝手にイメージした、日記作者の人生の物語。最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
最後に主な参考図書とウェブサイトを記しておきます。
・角川ソフィア文庫 更級日記 菅原孝標女、原岡文子 訳注
このお話のベースにした本です。ただし訳文をまる写しは出来ませんので、参考にしながら自己流で意訳しています。正しい訳とは言えないかもしれませんが、現在これが精一杯です。
本文は空白、段落を除いてほぼ写し書きです。「」や句読点も、この本にならいました。
・新潮文庫 新源氏物語 田辺聖子 著
源氏物語の場面の確認に使いました。ごく僅かな場面の、かなり大まかな説明ですが。手元にあった本です。
・人物叢書 藤原行成 黒板伸夫 著
人物像と言うより、人間としての藤原行成を描いています。行成の日記『権記』だけでなく『小右記(実資の日記)』『御堂関白記(道長の日記)』からの視点も含まれていて、多方面からこの時代の朝廷政治を表しています。
・角川ソフィア文庫ビギナーズクラッシック 枕草子 清少納言、坂口由美子 著
平安時代の宮仕え文化が描かれている枕草子。すべて通して読んでも興味深いのですが、この本は入門編としてはもちろん、参考資料としても使いやすかったです。
ウェブサイト
・『更級いちはら紀行』(市原市埋蔵文化センター)
http://www.city.ichihara.lg.jp/maibun/sarasina2/mokuji1.htm
菅原孝標の家族プロフィール(?)コーナーなど参考にしました。古代、上総の東海道の現在の姿の写真も、イメージ作りになりました。この別ページの「菅原孝標女生誕千年記念特集」の会話式解説が興味深いです。
・『更級日記紀行』(インテリアグリーンのポトス)
http://www.sarasina.info/
本来はお店のHPのようですが、個人の趣味で更級日記の帰京の旅部分を考証、現代紀行文風訳をなさっておられるようです。趣味とは思えないほど深い見識で書かれています。多岐にわたる知識に当時の旅が浮かび上がるようです。
他に『ウィキペディア』や、さまざまなところから『大鏡』にあるエピソードも参考にしました。