第99話:屋根の上の死闘、怪盗と時計屋の脱出
「ちっ、金庫の重量センサーね! 絵画を外した瞬間に作動するタイプだったか!」
クラリスが舌打ちし、太もものホルスターから小型の自動拳銃を抜き放った。
「シオン、正面の階段は使えないわ! 装甲兵が十人以上雪崩れ込んできている!」
「非常用の通気シャフトを使います! あそこなら屋根裏へと直結している!」
シオンは工具鞄から超小型のテルミットペレットを取り出すと、壁の高い位置にある換気用鉄格子へと擦り付けた。
バチバチバチッ!!
数千度の白熱光が一瞬にして鉄格子を溶断する。
シオンとクラリスは、突入してきた兵士たちの銃弾が壁を削り取る寸前、通気ダクトの中へと滑り込んだ。
細い亜鉛メッキのダクトを猛スピードで這い上がり、屋根裏の点検口を蹴破る。
二人が飛び出したのは――ハルトマン邸の広大な屋根の上だった。
見渡す限り広がる貴族特区の豪邸の屋根の連なり。冷たい朝の霧雨が、急傾斜のスレート瓦を滑らかに濡らし、一歩でも足を踏み外せば地上二十メートルへと真っ逆さまに墜落する危険な足場だった。
「屋根の上だ! ライフル部隊、狙撃しろ!」
地上の中庭から、装甲兵たちの鋭い銃撃が雨あられと撃ち込まれてくる。
パァンッ、チュドォンッ!!
弾丸がスレート瓦を派手に弾き飛ばし、破片が煙を上げて飛び散る。
「きゃああっ!?」
クラリスの足元の瓦が砕け散り、彼女の体がバランスを崩して屋根の縁へと滑り落ちかけた。
「クラリス!」
シオンは身を乗り出し、左手で彼女の手首を力強く掴み取った。
鋼鉄のぜんまい仕掛けのようにブレない驚異的な握力。シオンは腕の力だけで、クラリスの身体を一気に引き戻した。
「ふぅ……危ないところだったわ。男の子に手を引かれるなんて、何年ぶりかしらね」
「お喋りは後です! 跳びますよ!」
シオンは背中に国宝の絵画筒をしっかりと固定し、隣の公爵邸の屋根へと向かって全力で助走をつけた。
二つの建物の隙間は、およそ四メートル。
宙を舞う二つの影。
シオンとクラリスは、完璧な空中姿勢で隣の屋敷のバルコニーへと着地し、そのまま前転して衝撃を逃がした。
だが、追っ手の私兵部隊も執拗だった。
後方の屋根から放たれた特殊なスチールワイヤー弾が、ヒュルヒュルと唸りを上げてシオンの足首へと絡みついた。
「捕まえたぞ! 引きずり落とせ!」
ワイヤーが急速に巻き取られ、シオンの体がバルコニーの欄干へと引きずられそうになる。
しかしシオンは眉一つ動かさず、工具鞄のサイドポケットから『超音波振動チタンカッター』を抜き放った。
ジィィィィンッという微かな共鳴音と共に、超鋼ワイヤーが豆腐のように一瞬で両断された。
反動で後方の兵士が屋根から転がり落ちる。
「トビー、今だ! 突っ込め!」
シオンが眼下の通りへ向けて大声で叫んだ。
その瞬間――!
ガガガガガッ、ボシュゥゥゥッ!!
通りの角から、黒煙と激しい蒸気を吹き上げながら、一台の黒い大型蒸気馬車が猛烈なドリフト走行で滑り込んできた!
御者台で防塵ゴーグルをかけ、太い真鍮の蒸気レバーを全身全霊で握りしめているのは、少年トビーだった!
「親方ぁぁぁっ! 飛び降りてこいぃぃぃっ!!」
トビーの叫び声と同時に、シオンとクラリスはバルコニーの欄干を蹴り、地上六メートルの高さから、疾走する蒸気馬車の屋根へとダイブした。
ドガァンッ!!
馬車のスプリングが大きく軋みながら二人を受け止める。
シオンは素早く馬車の天窓を開け、クラリスと共に車内へと滑り込んだ。
「よくやったトビー! 全速力で離脱しろ!」
「あいよっ! クロノス堂特製・高圧過熱ボイラーの力を見せてやるぜ!」
トビーがバルブを限界まで開放すると、石炭ボイラーの燃焼炉が真っ赤に白熱し、蒸気ピストンが狂ったような高回転で唸りを上げた。
バシューーーッ!!
追跡してきた警察の警邏馬車をあっという間に置き去りにし、蒸気馬車は時速六十キロを超える猛スピードで貴族街の石畳を疾走していく。
前方に見えてきたのは、貴族街と中央区を隔てる運河の巨大な跳ね橋だった。
「親方! 跳ね橋が上がり始めてるぜ! 通れねえ!」
「減速するな、トビー! 速度を維持しろ!」
シオンは懐中時計を取り出し、跳ね橋の真鍮製油圧シリンダーの上昇速度を瞬時に目測した。
「橋の角度は現在十二度、通過予測時刻まであと三秒。跳躍角度としては完璧だ。……そのまま突っ込めぇぇぇっ!!」
「うおおおおおっ!!」
ドォォォォンッ!!
蒸気馬車は持ち上がりかけた跳ね橋のスロープを蹴り上げ、運河の上空へと豪快に跳躍した。
数秒間の完全な無重力。
そして対岸の石畳へと激しい火花を散らしながら着地した馬車は、そのまま帝都中央大通りへと滑り込んでいった。
背後で、跳ね橋は完全に垂直へと跳ね上がり、追跡してきた特捜警察の部隊を運河の向こう側へと完全に遮断した。
「やったーっ! 撒いたぜ、ざまあみろ!」
トビーが快哉の叫びを上げる。
馬車の中で、シオンは背中のジュラルミン筒を抱きしめ、額の汗を拭った。
クラリスが紫煙を吐き出し、感嘆の笑みを漏らす。
「ふふ……本当に、とんでもない男ね、シオン。……これで、本物の国宝と遺言書は手に入ったわ。あとは……正午の法廷ね」
「ええ。急ぎましょう。大講堂で待つエルネスタたちの元へ!」




