第100話:大講堂での実験準備、光と水滴の連立方程式
午前十時。帝都大講堂・舞台裏。
朝の光が差し込む広大な講堂には、昨夜の熱気と喧騒が嘘のように静まり返っていた。
通用口から滑り込んできたシオン、クラリス、そしてトビーの三人を迎えたのは、白薔薇の徽章を胸に付けた正装のエルネスタと、ギルバート警部だった。
「シオン殿……! ご無事でしたのね!」
エルネスタが駆け寄り、そのアイスブルーの瞳を潤ませてシオンの無事を確かめる。
シオンは背中のジュラルミン筒を外し、作業台の上に置いた。
「ええ。約束通り、本物の『黄昏の幻影画』、そしてその裏地に隠されていた先帝陛下の真の遺言書を奪還しました」
「……っ! 本当ですの!?」
ギルバート警部が息を呑み、キャンバスの裏面の朱色の蛍光文字を覗き込んだ。
「すげえ……! 本物だ、間違いねえ! これさえあれば、ハルトマンの野郎の悪事を一発で吹き飛ばせるぜ!」
「いいえ、ギルバート警部。これだけでは足りません」
シオンは冷徹な眼差しで、大講堂の天井と演壇を見上げた。
「ハルトマンは、狡猾な司法の怪物です。彼の手元には、依然として千人の目撃者という巨大なアリバイの壁が存在する。法廷の裁判官や世論は、『千人の目の前でカミーユが手品を披露していた』という事実を信じ切っています。もし私たちが絵画のすり替えだけを主張すれば、ハルトマンは『シオンが絵を盗むために、後から本物を持ち出して捏造したのだ』と反論してくるでしょう」
「千人の目撃証言を、法廷の全員の目の前で、完全に解体してみせなければならない……そういうことですわね?」
エルネスタの言葉に、シオンは力強く頷いた。
「その通りです。言葉による論理的説明では、人間は己の目で見た錯覚を否定できない。ならば――彼らが見たものと全く同じ【奇跡】を、法廷の大理石の上で、科学と物理の手によって完全再現してみせるしかないのです」
シオンはトビーに合図し、工具箱から大講堂の天井裏から回収してきた石英光ファイバー、超音波ピエゾ素子、そして微細ミストノズルを取り出させた。
シオンの細く器用な指先が、光路計算書と回路図を広げ、瞬く間にノズルとアーク放電灯の結線を組み上げていく。
「トビー、ピエゾ素子の発振周波数を二点四メガヘルツに固定しろ。水滴の粒径は、光の波長と全く同じ五百ナノメートル――零点五ミクロンだ。一ミクロンでもズレれば、ミー散乱が起きず、光が霧の中で白濁して像が結ばない。屈折率一点三三の水滴膜が、空気中で完全な光学位相整合を生み出す限界値を維持するんだ」
「任せとけ、兄貴! 水晶振動子の共振回路はオイラがバッチリ調整してあるぜ!」
トビーがハンダごてを巧みに操り、回路を接続する。
シオンは演壇の中央にノズルをセットし、背後の照明をすべて落とさせた。
講堂内が深い静寂と闇に包まれる。
シオンが真鍮のスイッチを押し込んだ、その瞬間――。
シュラァァァ……。
演壇の床板から、目に見えないほど微細な水滴の層が、薄いカーテンのように立ち上った。
そこへ、三階から引き下ろされたアーク灯の光束が、石英光ファイバーを通じて照射される。
パッ――!!
暗闇の中に、忽然と浮かび上がったのは、真紅の裏地のコートを羽織り、不敵な微笑みを浮かべる等身大の魔術師カミーユの立体虚像だった!
髪の毛の一本一本、服の皺、トランプを持つ指先の陰影にいたるまで、まるで生きた人間がそこに立っているかのような圧倒的な実在感。
「あ……っ!」
エルネスタが息を呑み、思わず手を伸ばしかけて足を止めた。
「美しい……。触れられそうなほどリアルですわ……。これが、千人の観客が見ていた【幻影】……!」
「ええ。光の波長と散乱角、そして水滴の屈折率を極限まで計算し尽くした、光学工学の結晶です」
シオンはそっと手を伸ばし、虚像の胸元へと自らの手を差し入れた。
シオンの手は、光の像を何一つ遮ることなく、煙のように通り抜けた。
「ですが、光に触れれば幻は消え去る。触れても決して消えないもの……それこそが、真実です」
シオンは振り返り、エルネスタの元へと歩み寄った。
そして、彼女の白手袋の手をそっと両手で包み込み、自らの胸元へと当てた。
トクン、トクン、トクン……。
布地越しに伝わってくる、シオンの力強く温かい心臓の拍動。
「あなたの体温も、私の鼓動も……決して光学の手品などではない。本物の真実です。十年前のあの日、私はすべてを失い、冷たい歯車の音だけを信じて生きてきました。ですが……あなたと出会い、共に真実を追い求めたこの日々の中で、私の胸の針は、再び温かい命の時を刻み始めたのです」
「シオン殿……」
エルネスタは頬を微かに染め、アイスブルーの瞳に大粒の涙を滲ませながら、シオンの手を強く握り返した。
「ええ。信じていますわ。あなたの類稀なる頭脳と……そして、誰よりも人を愛し、正義を希求するその熱い心を。私もまた、あなたと背中を預け合える誇りを胸に、あの法廷の壇上に立ちます」
ゴオォォォン……ゴオォォォン……。
大講堂の天井から、帝都最高裁判所の大時計塔が鳴らす、午前十一時を告げる重厚な鐘の音が響き渡った。
決戦の査問法廷まで、残された時間はあと一時間。
シオンとエルネスタは、互いに深く頷き合い、それぞれの戦場へと向けて力強い足取りで歩み出した。




