第98話:貴族院私邸の潜入、消えた本物の行方
早朝八時三十分。帝都貴族特区の冷涼な空気を切り裂くように、一台の黒塗りの公用馬車が、豪壮なアイアンゲートをくぐり抜けて大通りへと走り去っていった。
車窓の奥に見えたのは、軍用マントを羽織り、冷酷な横顔を浮かべた特捜監査官ギュスターヴ・ハルトマン卿の姿だった。
屋敷の主が司法省での事前審問へ向けて出発した、まさにその瞬間。
向かいの街並みの屋根瓦の陰から、二つの鋭い視線が、門扉を固める私設装甲兵たちの動きを冷徹に見つめていた。
全身を夜会用の黒いシルクコートで包んだシオンと、猫のようにしなやかな漆黒の革スーツに身を包んだ『月光亭』の支配人、クラリス・ノワールである。
「ハルトマンの出発を確認したわ。主がいなくなった隙に、屋敷の警備は交代時間に入る……今が唯一のチャンスよ」
クラリスが銀の煙管を懐へ収め、紫色の瞳を妖艶に細めた。
シオンは上着の内ポケットから、トビーがクロノス堂から運んできてくれた特製工具鞄を確かめた。
「正面の庭園には高圧有線電網が張り巡らされています。電圧は五千ボルト。触れれば即死ですね。……ですが、あの送電線は屋敷の北西角にある小型変電室から供給されています」
「あら、さすが時計屋坊や。ちゃんと図面を頭に叩き込んでいるじゃない」
「ええ。クラリス、変電室のブレーカーを落としてから、金庫室の扉の前で合流するまで、猶予は三分です」
「私を誰だと思っているの? 三分もあれば、帝都銀行の金庫だって空にしてみせるわ。……行きましょう」
クラリスがふわりと音もなく屋根から飛び降り、庭園の糸杉の影へと溶け込んだ。
シオンもまた、身軽な体術で塀の隙間をすり抜け、屋敷の搬入口の石段へと滑り込む。
十秒後――バシュンッという微かな放電音と共に、庭園を取り囲んでいた有線電網の青い火花がふっと消え去った。
電網の無力化を確認したシオンは、工具鞄から二本のチタン製ピックを取り出し、屋敷の勝手口のシリンダー錠をわずか三秒で無音開錠した。
忍び込んだ屋敷の内部は、大理石の床と豪奢な油彩画が並ぶ、貴族特区特有の冷え切った静寂に包まれていた。
壁の陰を縫うようにして地下階段を下りる。
地下二階の最奥。立ちふさがったのは、厚さ二十センチの防弾鋼板で作られた巨大な円形扉――ハルトマン卿のプライベート・コレクションルームの入口だった。
扉の脇には、すでにクラリスが待ち構えており、真鍮のヘアピンを指先で弄びながらシオンに微笑みかけた。
「待っていたわよ。この扉、外側のレバーロックは外したけれど、中央のダイヤル錠だけは私の細腕じゃビクともしないわ。スイス・オメガ製の最高級三連ダイヤル錠よ」
「お任せください。この錠前を開けるために、ここまで来たのですから」
シオンは工具箱から、人工ルビーの振動板を仕込んだ特製の『高感度クリスタル聴音機』を取り出すと、先端の吸盤を金庫扉のダイヤル軸の真横へと密着させた。
両耳に真鍮製のイヤーピースを装着し、指先で重厚な真鍮ダイヤルをゆっくりと回転させる。
コリ……コリ……コリ……。
常人の耳には決して届かない、内部の真鍮製タンブラーディスクが重力とスプリングによって噛み合う極微小な金属摩擦音。
ルビー振動板がそれを三万倍に増幅し、シオンの鼓膜へとダイレクトに伝達する。
シオンの脳内で、ダイヤルの数字が立体的な歯車の断面図となって組み上がっていく。
「右へ七十二……左へ三十五……逆回転で百十八……」
カチリ――。
最後の一打が、吸い込まれるように完全に噛み合った。
ガチャンッ、ギギギギギ……ッ!!
三本の極太の閂ボルトが一斉に後退し、巨大な鋼鉄扉が重々しい音を立てて内側へと引き開かれた。
「ふふ、お見事。相変わらず惚れ惚れする指先ね」
クラリスが感嘆の声を漏らし、二人はコレクションルームの中へと足を踏み入れた。
部屋の中央に置かれた樫の木の展示台。
その上に掛けられていたビロードの暗幕を、シオンが一気に引き剥がした。
現れたのは――金箔の額縁に収められた一枚の油彩画。
夕暮れの紫紺の空と、黄金に染まる古城、そして静謐な湖面。
三百年の時を経てなお、息を呑むほど深遠で神秘的な光彩を放つ、真の帝国国宝――『黄昏の幻影画』そのものだった!
「本物だ……!」
シオンの藍色の瞳が、確信に満ちて輝いた。
美術館の展示ケースにあった偽物とは、絵具の奥行きも、微細なガラス状のクラックも、放たれる気品もまるで違う。
シオンは迷わず絵画を額縁ごと持ち上げ、裏面のキャンバス地へと視線を走らせた。
裏張りの木枠の継ぎ目に、極めて精巧に施された蜜蝋のシーリング痕。
シオンは携帯用の紫外線ブラックライトを取り出すと、キャンバスの裏面へと斜め四十五度の角度から紫外線を照射した。
その瞬間――!
暗闇の中に、朱色の特殊な蛍光インクで記された、無数の人名と暗号化された巨額の口座番号が、鮮烈な光を放って浮かび上がった!
中央に記されていたのは、見紛うことなき玉璽の刻印、そして――。
「『帝国暦八百八十五年・先帝陛下真筆遺言状』……! そして貴族院重鎮三十七名への不正資金供与名簿……!」
「これよ……!」
クラリスが息を呑み、妖艶な瞳に戦慄を走らせた。
「十年前、大時計塔の炎上事件の夜に忽然と消え去った、帝国最大の国家機密……! ハルトマンはこの名簿を使って貴族たちを脅迫し、帝国の権力を完全に牛耳るつもりだったのね!」
「ええ。ですが、奴の野望もここまでです」
シオンはキャンバスを枠から手早く外し、耐火性のジュラルミン筒へと慎重に巻き込んで背中に背負った。
その瞬間――!
ジリリリリリリリリリリ――――ッ!!!!
コレクションルームの天井に取り付けられた高圧ベルが、けたたましい非常警報を館内中に鳴り響かせた!
部屋の外から、無数の重い軍靴の足音と、怒号が雪崩のように押し寄せてくる!
「侵入者だ! 地下コレクションルームを封鎖しろ!」
「ネズミを一匹たりとも外へ出すな! 射殺しろ!」




