第95話:二人きりの夜、捻挫した足首と温もり
熱いシャワーを浴び、泥と雨水を洗い流したエルネスタは、バスルームからおずおずと姿を現した。
クラリスが用意してくれたのは、肌触りの良い純白のシルクのネグリジェと、その上に羽織る柔らかな淡いブルーのローブだった。
普段の隙のない軍服やタイトなスカートとは打って変わり、ゆったりとした薄手の布地が、彼女のしなやかで女性らしい身体のラインをありありと浮かび上がらせている。
濡れた銀髪からは甘い石鹸の香りが立ち上り、湯上がりの白い肌は、上気してほんのりと桜色に染まっていた。
「……シオン殿、お待たせいたしましたわ」
ソファの前に立っていたシオンは、振り返った瞬間、息を呑んで立ち尽くした。
いつもの凛々しい氷の執行官の面影はなく、そこには息を呑むほどに無防備で、可憐な一人の少女が立っていた。
シオンの藍色の瞳が揺れ、慌てて視線を逸らす。
「あ……ええ。着替えが終わったのですね。……足の具合はどうですか」
「少し……痛みますけれど、歩けないほどでは……あっ」
強がりを言おうとしたエルネスタだったが、右足に体重を乗せた瞬間、激痛に顔をしかめてその場によろめいた。
シオンは素早く駆け寄り、彼女の腰を優しく抱きとめてソファへと座らせた。
「無理をするなと言ったはずです。座っていてください」
シオンはバスルームから持ってきた清潔なタオル、氷嚢、そしてクラリスから受け取った消炎用の薬草軟膏を携え、ソファの前に静かに跪いた。
床に片膝をつき、エルネスタの右足元へと手を伸ばす。
「失礼します。靴下を脱がせますよ」
「え……? あ、自分で脱げますわ……!」
「動かないでください。腫れが悪化します」
シオンの真剣な眼差しに気圧され、エルネスタはおとなしく口を噤んだ。
シオンの細く器用な指先が、エルネスタの足首に触れ、薄手の靴下をゆっくりと滑り落としていく。
露わになったのは、透き通るように白く繊細な、芸術品のように美しい素足だった。
しかし、その外側のくるぶしの周囲は、青黒く腫れ上がり、熱を帯びていた。
「かなり内出血していますね。靭帯が伸びている。……痛みますか?」
シオンの手のひらが、熱を持った患部をそっと包み込んだ。
冷たい精密機械を扱うはずの手工芸職人の指先は、驚くほど温かく、そして羽根のように優しかった。
「ひゃっ……! い、痛くは……ないですけれど……その……」
エルネスタはローブの裾をぎゅっと握りしめ、身悶えするように太ももを寄せ合わせた。
肌と肌が直接触れ合う感触。シオンの指先が、薬草軟膏をすくい、腫れた足首へと円を描くように優しく塗り広げていく。
ツンとしたハッカの清涼感と共に、シオンの指の温もりがじわりと患部の芯まで染み渡る。
「くすぐったい……ですわ。……胸の奥が、何だか熱くなって……」
「ツボを圧迫して、血流を促しているんです。少し我慢してください」
「う、うん……っ」
甘い吐息を漏らすエルネスタ。その瞳は潤み、長い睫毛が恥じらいに震えていた。
シオンもまた、手当を続けながら、喉の渇きを覚えていた。
至近距離にある、雪のように白い肌。漂う甘い香り。
普段は冷静沈着を誇る時計職人の心拍数が、ぜんまいの巻きすぎた時計のように、狂ったようなテンポで加速していくのを自覚していた。
シオンは手際よく氷嚢を当て、サラシの包帯を丁寧に巻き終えると、ふうと息を吐いて顔を上げた。
二人の視線が、わずか数十センチの距離で、真っ直ぐに絡み合った。
「……終わりました。これで明日の朝には、痛みはかなり引いているはずです」
「ありがとう……シオン」
エルネスタは執行官の肩書きを忘れ、ただの名前で彼を呼んだ。
そのアイスブルーの瞳が、深く、愛おしそうにシオンを見つめる。
「ねえ、シオン。私ね……あなたがただの腕のいい時計屋ではないこと、最初から分かっていたわ。あなたが背負っている十年前の傷も……影の演出家との因縁も」
「エルネスタ……」
「でもね、私にとって……今のあなたは、誰よりも信じられるパートナーよ。あなたの手は、人を欺くためのものじゃない。壊れた時計を直し、傷ついた人を救い、真実を照らし出すための……世界で一番温かい手だわ」
「……っ」
胸を強く締め付けられるような感情が、シオンの全身を駆け巡った。
孤独の中で、ただ復讐と真実の究明のためだけに生きてきた少年の凍てついた心に、彼女の温かい言葉が、春の陽光のように染み込んでいく。
シオンは吸い寄せられるように、無意識のうちに右手を伸ばし、彼女の柔らかな頬へと触れようとした――。
エルネスタもまた、瞳を潤ませ、拒むことなく静かに目を閉じた。
二人の唇が、触れ合う寸前まで重なりかけた――まさにその瞬間。
ガチャリ、バコォォォンッ!!
金庫室の頑丈な防弾扉が、けたたましい音を立てて跳ね開けられた。
「うわああああっ! シオンの兄貴ぃぃぃっ! 無事だったのかよおおおっ!!」
「……っ!?」
「きゃあっ!?」
二人は弾かれたように飛び退いた。
転がり込んできたのは、工具箱を抱えて涙目で突進してきた少年トビーと、その後ろで顎髭を掻きながらバツの悪そうな顔をしているギルバート警部だった!




