第94話:高級クラブ『月光亭』の地下金庫室
深夜三時三十分。帝都の裏歓楽街『銀鈴街』。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った石畳の路地奥に、黒大理石の外壁と真鍮のランタンで飾られた、格式高い高級クラブ『月光亭』がひっそりと佇んでいた。
貴族や大商人、裏社会の大物たちが夜な夜な密談を交わす、帝都屈指の社交場である。
通用口の重い樫の木扉の前に辿り着いたシオンは、真鍮のノッカーを手に取ると、特殊なリズムで刻んだ。
――ト、トン、ト・ト・トン。
十秒の静寂の後、扉の覗き窓がスライドし、妖艶な紫色の瞳が暗がりから二人を見据えた。
「……合言葉は?」
「『午前零時のぜんまいは、逆回転で時を刻む』」
シオンが低く答えると、重厚なシリンダー錠が三つ同時に外される音が響き、扉が音もなく開かれた。
迎えたのは、背中が大きく開いた真紅のベルベットドレスに身を包み、長い黒髪を夜風に揺らした美女――『月光亭』の支配人にして帝都裏情報網の女王、クラリス・ノワールだった。
クラリスは細長い銀の煙管から甘い紫煙をくゆらせ、ずぶ濡れで泥まみれの二人を見下ろすと、妖艶な笑みを浮かべてため息をついた。
「まったく……。絵画泥棒の次は、国家反逆罪の指名手配犯だなんて。シオン、あなた私の店を避難所か何かと勘違いしていないかしら?」
「お久しぶりです、クラリス。緊急事態なんだ。匿ってくれ」
「ふふ、昔から可愛い顔をして無茶ばかり言う坊やね。……そちらの白薔薇のお嬢さんも、足をお怪我なさっているようだし。立ち話も何だから、入りなさい」
クラリスに案内され、二人は豪華なシャンデリアが灯るホールの奥、VIP専用の隠し扉を抜けて地下へと下りた。
地下の最深部にあったのは、厚さ三十センチの特殊防弾鋼板で造られた、巨大な円形金庫室だった。
かつて帝都の大銀行が非常用金庫として使っていた空間を丸ごと改装したというその隠れ家は、外の冷たい雨風とは一変して、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる温かな空間が広がっていた。
深紅のペルシャ絨毯、最高級の革張りソファ、そして壁一面に並べられた高級ウイスキーのボトル。さらに部屋の隅には、警察無線や帝国電信を傍受するための、大型の真空管式暗号受信機が緑色のインジケーターを点滅させながら低い唸りを上げていた。
「ここなら、帝都特捜警察が戦車を持ち出してきても破れはしないわ。外壁には鉛板が仕込んであって、音波探知器も電波探査も一切通さない。完全な防音密室よ」
クラリスはソファを指差し、ふかふかの巨大なバスタオルを二人に手渡した。
エルネスタは痛む右足首を庇いながら、恐る恐る革張りソファに腰を下ろした。
「感謝しますわ、クラリス殿。法を司る執行官の身として、このような裏社会の施設に足を踏み入れるのは本意ではありませんが……背に腹は代えられません」
「あら、相変わらずお堅いお嬢様ね。でも、その生真面目さは嫌いじゃないわよ」
クラリスはクリスタルグラスに琥珀色のブランデーを注ぎながら、受信機のヘッドフォンを片耳に当てた。
「事態はあなたの想像以上に切迫しているわ。ハルトマンの奴、一時間前に貴族院の緊急招集を取り付けたわ。明日正午――あと八時間後に開かれる『帝国最高査問法廷』で、シオンを国家反逆罪の主犯として即決処刑する手はずを完全に整えたそうよ」
「即決処刑……!?」
エルネスタが息を呑み、拳を握りしめた。
「正式な公開裁判も開かずにですの!? 弁護の機会すら与えないなど、明白な違法行為、帝国法規の蹂躙ですわ!」
「法なんて、力を持つ者が都合よく書き換えるものよ」
クラリスは冷徹に紫煙を吐き出した。
「ハルトマンの背後には、貴族院の軍需派閥の大物たちがべったりとついている。奴らの狙いは、十年前の真実を知るシオンの口を永遠に塞ぐこと。そして、本物の『黄昏の幻影画』の裏地に封印されていた先帝陛下の真の遺言書を楯にして、現皇帝を退位させ、貴族院が実権を握る軍事独裁政権を樹立することよ。あの男は、明日正午の法廷で、偽物の絵画をシオンが破壊した証拠として提出し、すべてをシオンの単独犯行として片付けるつもりだわ」
「……させません」
濡れたシャツの袖を絞りながら、シオンが静かに、だが鋼のように硬い声で呟いた。
「ハルトマンが絵画と遺言書を手中に収めていることこそが、最大の勝機です。明日正午の法廷……そこが、奴を完全に破滅させるための唯一の舞台だ」
「頼もしいことね」
クラリスは艶やかに微笑み、バスルームのドアを指差した。
「詳しい作戦会議の前に、まずは冷え切った体を温めなさい。湯加減は最高にしてあるわ。……シオン、背中を流してあげましょうか? 昔、あなたがクロノス堂を開いたばかりの頃みたいに」
クラリスが妖艶にウインクした瞬間、エルネスタがガタッと勢いよく立ち上がった。
痛む足のことも忘れ、その顔は湯気が出るほど真っ赤に沸騰していた。
「お、お断りしますわ!!」
「あら、どうして? お嬢さんに関係あるかしら?」
「大いにあります! シオン殿の身柄は、現在私が法的に監督……いえ、その、とにかくダメなものはダメです!! 背中は……背中は私が……じゃなくて、一人で洗えますわ!」
必死に取り乱して噛みまくるエルネスタの純情な姿に、クラリスはくすくすと喉を鳴らして楽しそうに笑い声を上げた。
「ふふっ、可愛いこと。……冗談よ。私は予備の着替えと救急箱を用意してあげるから、仲良くお使いなさいな」
クラリスが軽やかな足取りで部屋を出ていき、金庫室の重い防音扉が閉ざされた。
残された二人の間に、パチパチと薪が爆ぜる暖炉の音だけが、どこか甘く気まずい熱を帯びて響き渡っていた。




