第93話:雨の路地裏、追手からの逃走
深夜二時三十分。帝都芸術特区の裏通りは、冷たい濃密な霧雨に煙っていた。
美術館の非常階段を駆け下り、搬入用の鉄扉を蹴破って夜の闇へと飛び出したシオンとエルネスタ、そしてギルバート警部の三人は、迷路のように入り組んだ下町の石畳を全力で疾走していた。
冷たい雨水が頬を叩き、乱れた前髪が額に張り付く。
背後からは、美術館の敷地を取り囲む警察車両のけたたましいサイレン音、そしてサーチライトの鋭い白光が、濡れた建物の壁を執拗に舐め回していた。
さらに、夜の湿った空気を切り裂く、獰猛な警察犬の吠え声。
「ワンッ、グルルルッ、ワンッ!!」
「くそっ、特捜の連中め、警察犬のシェパードを三頭も放ちやがった! あいつら、俺たちを本気で射殺する気配だぞ!」
ギルバート警部が太い息を吐きながら、大型拳銃のグリップを握り直して悪態をつく。
その隣を走っていたエルネスタが、不意に短く悲鳴を上げて足をもつれさせた。
「あっ……!」
「エルネスタ!」
シオンがとっさに彼女の腕を掴み、その倒れかけた体を抱きとめた。
エルネスタが履いていた革製軍靴の右足のヒールが、石畳の深い溝に挟まり、根元から無残にへし折れていた。右足首が不自然に傾き、彼女の青白い顔が激痛に歪む。
「ぐっ……足を……挫いてしまいましたわ……!」
「無理に走るな。骨に異常は?」
「ひ、ヒビはいっていません……捻挫ですわ。大丈夫、走れます……!」
エルネスタは気丈に唇を噛み締め、立ち上がろうとしたが、足に体重がかかった瞬間に激痛で膝が折れそうになる。
追っ手の足音と怒号が、角を一つ曲がった先まで迫っていた。犬の唸り声が、すぐそこまで響いている。
「あっちだ! 靴跡が路地へ続いているぞ!」
「逃がすな! 発砲を許可する、射殺しても構わん!」
絶体絶命の危機。
だが、シオンの藍色の瞳には、一片の動揺もなかった。
彼は周囲の建物の配置、配管、そして足元のマンホールの配置を、一瞬にして脳内の帝都立体地図へとマッピングした。
「ギルバート警部、左の路地へ! あの下水蒸気配管のバルブを、その鉄パイプで力任せに左へ回してください!」
「蒸気配管だと!? おうよっ!」
ギルバート警部が路地に転がっていた太い鉄パイプを拾い上げ、壁から突き出ていた錆びついた真鍮製バルブに引っ掛けて体重をかけた。
ギギギッ、ガガガガッ!!
高圧のスチーム弁が一気に開放された。
プシャァァァァァァァッ――!!
轟音と共に、摂氏百度の真っ白な高温蒸気が、路地一面へと猛烈な勢いで噴き出した。
視界は瞬く間にゼロになり、追跡してきた特捜兵たちの目の前を、濃密な白煙の壁が完全に遮断した。
「ぐわっ!? なんだこの蒸気は! 前が見えん!」
「止まれ、火傷するぞ! 犬を放て、匂いを追わせろ!」
蒸気の煙幕の中、三頭の大型警察犬が牙を剥いて突進してくる。
だがシオンはそれすらも予測していた。
彼は工具鞄から、時計の微小部品を脱脂洗浄するための『超高純度揮発性ベンジン』のガラス瓶を取り出すと、蓋を弾き飛ばし、足元の雨水溜まりへと一気に撒き散らした。
ツンと鼻を突く、猛烈な有機溶剤の芳香。
「キャウンッ、クゥゥン……!」
雨水に広がった高純度ベンジンの強烈な蒸気を吸い込んだ瞬間、鋭敏極まりない警察犬の嗅覚神経が完全に麻痺し、犬たちは鼻を前足で押さえて路地に転がり、混乱して狂ったように後退していった。
「よし、今です! こっちへ!」
シオンはエルネスタの細い腰を抱き寄せ、右肩を自分の首筋に回させると、半ば抱きかかえるようにして狭い建物の隙間へと滑り込んだ。
レンガ造りの建物の谷間、大型のゴミ収集用鉄製コンテナの裏側。大人の人間が二人、体を密着させてようやく隠れられるほどの狭隘な死角だった。
ギルバート警部を別の建物の軒下へと先行させ、シオンとエルネスタはコンテナの影に身を縮めた。
「静かに。息を殺してください」
「は、はい……」
冷たい霧雨が降り注ぐ中、二人の体は一切の隙間もなく完全に密着していた。
エルネスタの背中が、寒さと激痛、そして逃亡の極度の緊張によって小刻みに震えている。
濡れた衣服越しに伝わってくる、彼女の華奢な体の震え。
シオンは迷うことなく、両腕を彼女の背中へと回し、自らの胸元へと強く抱き寄せた。自分の体温で、彼女の冷え切った体を包み込むように。
「シ、シオン殿……?」
「じっとしていてください。体温を逃がさないためです」
シオンの逞しい腕に抱きしめられ、エルネスタはカッと顔を赤らめた。
至近距離で重なる吐息。シオンの顎が彼女の濡れた銀髪に触れ、彼の力強い心臓の鼓動が、彼女の胸へと直接伝わってくる。
コンテナのすぐ外側を、重い軍靴の足音が駆け抜けていく。サーチライトの光が、鉄箱の縁をチカチカと掠めた。
エルネスタはシオンのシャツの胸元をぎゅっと握りしめ、彼の首筋に顔を埋めた。
不思議なほど、恐怖は消え去っていた。どんな冷たい雨の中にいようと、この男の腕の中にいる限り、絶対に守られているという絶対的な安堵感が、彼女の全身を満たしていた。
「……あっちだ! 裏通りの市場を捜せ!」
特捜兵たちの足音と怒号が、遠く夜の闇へと消え去っていく。
シオンは静かに腕を解き、エルネスタの顔を覗き込んだ。
「行きましたね。……大丈夫ですか?」
「え、ええ……。おかげさまで……」
エルネスタは潤んだ瞳を伏せ、照れ隠しに小さく咳払いをした。
「……行きましょう、シオン殿。ですが、帝都中の警察が私たちを追っていますわ。一体どこへ身を隠せば……?」
シオンは冷徹な眼差しで、帝都の南側――ネオンと霧に煙る裏歓楽街の方角を見据えた。
「警察の手が絶対に届かず、情報と通信設備が揃っている場所が、一つだけあります。……あの女の城へ行きます」




