第92話:特捜監査官の強襲、包囲された二人
立ち込める硝煙と破片の中、黒い軍用マントを翻して悠然と歩み入ってきたのは――帝国特捜監査官、ギュスターヴ・ハルトマン卿だった。
その冷酷な鷲鼻の奥にある灰色の瞳が、獲物を屠る猛禽のように細められている。
ハルトマンの手には、撃鉄の上がった黒光りする軍用大型自動拳銃が握られていた。
数十名の武装特捜兵が、扇状に散開してシオンとエルネスタ、そしてギルバート警部を完全に包囲する。装甲服に身を包んだ兵士たちの手元で、無数のライフルの銃口が一斉にシオンの胸元へと向けられた。
「そこまでだ、ネズミども。全員、両手を上げて床に伏せろ」
ハルトマンの氷のような冷徹な声が、静まり返った展示室に響き渡った。
その場の空気が、一瞬にして窒息しそうなほどの重圧に押し潰される。
「ハルトマン卿……!? 何の真似ですの!」
エルネスタが即座に前に進み出て、毅然とした声で叫んだ。
彼女のアイスブルーの瞳は、敵の圧倒的な武威の前でも微塵も揺らいでいなかった。
「私たちは事件の真相を解明し、展示ケースに残されていた絵画が近代顔料で描かれた贋作であることを突き止めたところです! 不当な武力行使をやめ、直ちに銃を下ろしなさい!」
「くく……相変わらず口の減らない小娘だ」
ハルトマンは嘲笑を浮かべ、拳銃の銃口をゆっくりとシオンの眉間へと向け直した。
「国家治安維持法第十七条に基づき、貴様らを現行犯で拘束する。容疑は――帝国国宝『黄昏の幻影画』の損壊、ならびに現場検証を装った証拠隠滅および国家反逆罪だ」
「なっ……反逆罪ですって!? 出鱈目を言わないで!」
「出鱈目かどうかは、貴様らが冷たい屍骸となった後に軍事法廷が決めることだ」
ハルトマンの冷酷な瞳に、一片の躊躇もない明確な殺意が宿った。
シオンの視線は、ハルトマンの背後に控える副官が抱えている、細長い黒塗りのジュラルミンケースへと注がれていた。
キャンバスを丸めて収めるのに、寸分の狂いもない特注の防湿・防弾ケース。
「……やはり、あなたでしたか、ハルトマン卿」
シオンは額に銃口を突きつけられながらも、微動だにせず冷たく言い放った。
「事件の前日、ベルク館長に特別監査令状を突きつけて接触し、本物の『黄昏の幻影画』をケースから持ち去ったのは……あなたですね? 絵の裏地に隠されていた、先帝陛下の真の遺言書を手に入れ、貴族院の権力を完全に掌握するために」
「ほう……?」
ハルトマンの眉がピクリと跳ね上がった。
「時計屋の分際で、嗅覚だけは犬並みと見える。……だが、知りすぎた犬は生かしてはおけんのだよ」
ハルトマンが躊躇なく引き金に指を掛けた、その瞬間だった。
「待ちなさい、ハルトマン卿!」
エルネスタが叫び、一切の躊躇なくシオンの前にその身を割り込ませた。
彼女は腰のサーベルをすらりと抜き放ち、ハルトマンの銃口の真正面に自らの華奢な胸を突き出した。
胸元の白薔薇の徽章が、非常灯の赤い光を反射して鋭く煌めく。
「撃つなら、まず私を撃ちなさい! 帝国法務執行官エルネスタ・ヴァレンタインの名にかけて、この人は……私のパートナーは、絶対に渡しません!」
「お嬢……!」
ギルバート警部が息を呑み、即座に拳銃を抜いてハルトマンの兵士へと向けた。
ハルトマンの目が、侮蔑と冷酷さに細まる。
「ヴァレンタイン公爵家の小娘が、平民の時計屋ごときに命を賭けるか。……反逆者に加担した以上、貴様も同罪だ。撃て!」
「させません!」
シオンがエルネスタの細い腰を背後から力強く引き寄せ、強引に自らの背中へと庇い込んだ。
エルネスタの驚いた吐息が、シオンの首筋にかかる。
「エルネスタ、目を閉じていろ!」
シオンは左手で作業台の上に置かれていたマグネシウム製の高輝度フラッシュ粉末の瓶を掴むと、展示ケースのハロゲンライトの剥き出しの高圧電極へと力任せに叩きつけた!
バァァァァァァンッ!!!!
展示室全体を呑み込む、数百万カンデラの純白のプラズマ閃光が室内に炸裂した。
「ぐわぁっ!? 目があぁぁっ!!」
ハルトマンと特捜兵たちが一斉に悲鳴を上げ、視界を奪われて闇雲に乱射した銃弾が、展示室の大理石の壁や防犯ガラスを乱雑に粉砕していく。
硝煙と火花が渦巻く中、シオンはエルネスタの手を固く握りしめ、非常用階段の鉄扉へと突進した。
「走るぞ、ギルバート警部! 非常階段へ!」
「応よっ!!」
ダダダダダダッ!!
背後から放たれる無数の銃弾を紙一重でかわしながら、三人は非常階段を駆け下り、夜の帝都の冷たい雨の中へと飛び出した。
冷たい霧雨が、熱を帯びた頬を激しく打つ。
背後からは、美術館を包囲する警察車両のけたたましいサイレンと、追跡する警察犬の獰猛な咆哮が迫っていた。
「シオン殿……! 私たちは、指名手配犯になってしまいましたわ……!」
乱れた銀髪を雨に濡らし、荒い息を吐きながら走るエルネスタ。
シオンは彼女の手を決して離すことなく、骨が軋むほど力強く握り返した。
その藍色の瞳には、絶望など微塵もなく、反撃の炎が烈火のごとく燃え盛っていた。
「構いません。……真実の時計の針は、まだ止まってなどいない。明日正午に開かれる最高査問法廷で、ハルトマンのすべての罪を、帝都中の前で白日の下に晒してやる!」




