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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第91話:ケースの中の贋作と消えた真作

シオンの放った冷酷な一言に、展示室の空気は一瞬にして絶対零度へと凍りついた。

 シオンは白手袋をはめた両手で、展示ケースの奥から額縁ごと油彩画を慎重に取り出すと、部屋の中央に置かれた大型作業台の上に静かに横たえた。

 上着の内ポケットから高倍率の繰り出しルーペと、紫外線ブラックライトを取り出す。

 シオンの研ぎ澄まされた視線が、キャンバスの表面、絵具の積層、そして微細な筆跡をミリ単位で検分していく。


「シオン殿……合成樹脂ワニスの匂いとは、一体どういうことですの……?」


 エルネスタが不安げに眉を寄せ、作業台へと身を乗り出した。羽織ったシオンのコートから、微かに温かい匂いが立ち上る。


「古典的な十七世紀の油彩画には、天然の乾性油である亜麻仁油や、高級樹脂であるダンマルゴムが用いられます。三百年の長い歳月を経たカンバスであれば、油分は完全に酸化重合し、表面には硬質なガラス状のクラック――経年劣化による網目状の微細な亀裂が無数に走っているはずです。しかし、この絵を見てください」


 シオンはルーペをエルネスタに手渡した。


「表面の亀裂の溝に、絵具の滲み込みが一切見られない。これは自然な経年劣化ではなく、乾燥後に針や硬い筆の先で、わざわざ人工的に描き込まれた【偽装のクラック】です。さらに……」


 シオンはカンテラの火を消し、携帯用ブラックライトのスイッチを入れた。

 漆黒の暗闇の中に、怪しい紫色の紫外線が照射される。

 キャンバスの表面が、不気味な蛍光色を放ち始めた。


「三百年前の鉱物顔料――ラピスラズリや鉛白であれば、紫外線に対して鈍い暗緑色の反応を示すはずです。しかし、この空と湖の青は、鮮烈な青紫色に発光している。これは、二十年前に帝国石油化学研究所が開発したばかりの近代合成アニリン顔料特有の光学的反応です」


「……っ! では、この絵は……!」


「贋作です」


 シオンの低く、容赦のない宣告が落ちた。


「描かれてから、せいぜい三週間から一ヶ月。模倣の技術そのものは帝都随一の腕を持つ職人の手によるものですが、物理的・化学的な分析を誤魔化すことは不可能です。……展示ケースの中で偏光迷彩によって隠されていたのは、最初から巧妙にすり替えられていた【偽物の絵画】だったのです」


「な……なんですって……!?」


 エルネスタが息を呑み、衝撃のあまりよろめいて作業台の縁を掴んだ。

 ギルバート警部も顎が外れそうなほど口を開け、キャンバスを凝視する。


「偽物……!? じゃあ、本物の国宝『黄昏の幻影画』は……一体どこへ行っちまったんだ!?」


「本物は――昨夜の事件が起きるより遥か以前に、すでにこの美術館から何者かの手によって持ち去られていたんだ!」


 シオンは額縁の裏面をめくり、真鍮の留め具を慎重に外した。

 裏張りの木製パネルを剥がすと、キャンバスの裏地の麻布が露わになった。

 その中央部――本来なら何もないはずの裏地に、かつて正方形の何かが強力な接着剤で貼り付けられていたことを示す、真新しい剥がし跡がくっきりと残されていた。


「これを見てください。額縁の裏に、極薄の秘密ポケットが作られていた痕跡です。……犯人の真の目的は、国宝絵画そのものの美術的価値などではなかった。この絵の裏地に十年間封印されていた【ある重大な国家機密】を奪い去ることだったんだ!」


「重大な国家機密……!?」


 エルネスタのアイスブルーの瞳が、驚愕に見開かれた。彼女の脳裏に、帝国貴族院の奥深くに眠る暗黒の歴史がフラッシュバックする。


「まさか……十年前の大時計塔炎上事件……!? あの時、炎上する塔の最上階金庫から持ち去られ、行方不明になったと言われている……帝国中枢の汚職名簿、そして先帝陛下が崩御の直前に遺されたという『真の遺言書』……!」


「ええ。ベルク館長は、十年前の火災の現場からその遺言書を密かに盗み出し、この絵の裏に封印して美術館の金庫に隠し持っていた。彼はそれを盾にして、貴族院の高官たちを長年脅迫し、巨額の利益を得ていたのです。……そして今、影の演出家と結託した黒幕は、その遺言書を回収するために、この大掛かりな犯罪劇を仕組んだ」


 シオンの頭脳の中で、すべての謎が一本の線となって完璧に結像した。

 背筋を駆け抜ける、かつてないほどの激しい戦慄。


「なんという……恐るべき二重三重の陽動だ……!」


「シオン殿……?」


「考えてもみてください、エルネスタ。大講堂での千人の不在証明劇、地下修復庫での館長の自作自演狂言の乗っ取り、そして展示ケースでの偏光迷彩による絵画消失……! 警察も、世論も、そして私たち自身も、昨夜の『絵画消失』と『密室殺人』という派手な手品を解くことにすべての思考をジャックされていた!」


 シオンは拳を強く握りしめ、冷徹な悔しさに唇を噛んだ。


「だが、すべては目くらましだったんだ! 本物の絵画と遺言書は、昨夜盗まれたのではない。事件が起きる数日前、すでに何者かによって堂々と持ち出されていた! 昨夜の事件はすべて、本物がすり替えられたという事実そのものを隠蔽し、警察の捜査の目をカミーユや館長へ向けさせるための、巨大な【煙幕】に過ぎなかったんだ!」


「そんな……! では、本物を持ち去った真の犯人は……一体誰ですの!?」


「事件の前、誰にも怪しまれずにこの展示ケースを開け、本物の絵画を特別鑑定と称して持ち出す絶対的な権限を持っていた人物……。そして、警察の捜査を現場で自在に指揮し、カミーユを犯人に仕立て上げようと執拗に誘導していた男――」


 シオンがその名を口にしようとした、まさにその瞬間だった。

 ドガァァァァンッ!!

 特別展示室の重厚な樫の木の扉が、激しい銃撃によって蝶番ごと吹き飛ばされた。

 濛々たる硝煙の中、完全武装した特捜警察のライフル部隊が、銃口を構えて怒涛の勢いで雪崩れ込んできた!

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