第90話:偏光ガラスの迷彩、絵画はどこへ?
深夜一時。一行は地下修復庫を後にし、一階の特別展示室へと戻ってきた。
天井のシャンデリアは消され、中央に設置されたガラス張りの巨大な展示ケースだけが、四方からのハロゲンライトに青白く照らし出されている。
ケースの中は――事件発生時と何ら変わらず、依然として【完全な空っぽ】のままだった。
赤いビロードの展示台の上には、額縁を固定していたはずの真鍮のフックだけが虚しく残されている。
「事件が起きた二十一時ちょうど、館内は主電源の切断によって三十秒間の完全な暗転に見舞われました」
エルネスタが当時の状況を思い起こしながら、展示ケースの周囲を歩く。
「非常電源が復旧した瞬間、ケースの中に飾られていたはずの国宝『黄昏の幻影画』は忽然と消失していた。展示ケースの特殊防犯ガラスには傷一つなく、三重のシリンダー錠も施錠されたままでしたわ。……もし地下の館長が絵画を盗み出していないとすれば、この展示室の絵は一体どこへ消えたというのですか?」
「絵画は、最初から消えてなどいませんよ」
シオンが平然とした声で言い放った。
「え……?」
「消えていない、とはどういうことですの、シオン殿!? 現に、ケースの中には何もありませんわ!」
「人間の目は、光の反射を脳で認識しているに過ぎません。光の波長と偏光を物理的に制御すれば、そこに存在する物体を【不可視化】することは、決して不可能な魔法ではないのです」
シオンは上着のポケットから、二枚の四角い光学偏光板を取り出した。
精密な水晶スリット加工が施された、シオン特製のポラロイド・フィルターである。
シオンは展示ケースのガラス面に歩み寄ると、ハロゲンライトの照明器具のレンズ部分を指差した。
「まず、照明です。この展示ケースを照らしているスポットライトの前面には、極めて薄い偏光フィルムが貼り付けられています。このフィルターを通った光は、特定の角度――縦方向の偏光成分しか持たない光波となってケース内へ照射される」
シオンは自らが持つ偏光板を、展示ケースの正面ガラスにかざした。
「そして、この展示ケースの防犯ガラス。通常の強化ガラスに見えますが、内側の面に、もう一枚の偏光フィルターがサンドイッチ状に圧着されている。……エルネスタ、ここから中を覗いてみてください」
エルネスタがシオンの横に寄り添い、偏光板のレンズ越しにケースの奥を見つめた。
シオンの指先が、偏光板の角度をゆっくりと九十度――水平から垂直へと回転させる。
その瞬間だった。
空っぽだったはずの展示ケースの空間に、まるで水底から浮き上がる亡霊のように、ぼんやりとした色彩の揺らぎが現れた。
カチリ、と偏光板が直交ニコルの角度に達した瞬間――。
「あ……っ!?」
エルネスタが息を呑み、思わず声を上げた。
闇の中に、鮮やかに浮かび上がったのは、夕暮れに染まる古城と霧深い湖を描いた、息を呑むほど美しい油彩画――帝国国宝『黄昏の幻影画』そのものだった!
「絵画が……ある!? ケースの中に、ずっとあったというのですか!?」
「ええ。これが【直交ニコル偏光迷彩】の原理です」
シオンは淡々と解説を続けた。
「光は波です。縦方向に振動する偏光照明を当て、それを直交する横方向の偏光フィルター越しに見ると、反射光は完全に遮断され、人間の目には完全な【黒】――すなわち何もない暗闇として認識される。
さらにケースの背景には、同色の黒いビロード布が敷かれているため、照明の光は背景に溶け込み、絵画はまるで空中に溶けて消え去ったかのような完全な透明化を果たすのです」
「なんてことだ……!」
ギルバート警部が頭を抱えて唸った。
「じゃあ、二十一時ちょうどの三十秒間の暗転の間に、犯人は絵を盗み出したんじゃねえ……! ケースの偏光フィルターの角度を九十度回転させ、絵を見えなくしただけだったのか!」
「その通りです」
シオンは展示ケースの木製台座の底面を覗き込み、極小の真鍮製ラチェット機構と、電源切断で作動するスプリングモーターを発見した。
「停電によって電磁ロックが解除された瞬間、ぜんまいの力でガラス枠内部の偏光板が自動的に九十度回転する仕掛けです。犯人は展示ケースを開ける必要すらなく、遠隔で絵画を【消失】させてみせた」
「素晴らしいわ、シオン殿……!」
エルネスタのアイスブルーの瞳が、歓喜と深い敬意に輝いた。
彼女は思わずシオンの両手をギュッと握りしめ、至近距離で見つめ上げた。
「千人の不在証明の解体、地下密室のトリックの看破、そしてこの絵画消失の科学的証明……! これで事件の全貌は暴かれました! 国宝も無事に見つかり、ハルトマンの不当な追及を完全に粉砕できますわ!」
「……いえ、エルネスタ」
シオンの表情は、晴れるどころか、かつてないほど険しく凍りついていた。
シオンは握られたエルネスタの手を優しく解くと、展示ケースの真鍮錠前にピックを差し込み、静かにガラス扉を開け放った。
ケースの中から漂ってきた、わずかな空気の匂い。
シオンの藍色の瞳が、鋭く見開かれた。
「喜ぶのは……まだ早すぎます」
「え……? どういうことですの?」
「この匂いです。……これは、三百年前に描かれた古典油彩画の匂いではない。乾いてから一ヶ月も経っていない、石油系合成樹脂ワニスの匂いだ……!」




