第89話:狂言密室の乗っ取りトリック
「な……なんですって……!? この仕掛けを、ベルク館長自身が作ったというのですか!?」
エルネスタの驚愕の叫びが、地下修復庫のコンクリート壁に反響した。
ギルバート警部も目を丸くし、シオンの指し示す時計の裏側を食い入るように覗き込んだ。
「馬鹿な! じゃあ何か、館長は自分で自分を殺すための自殺装置を作ったってのかい!? そんな阿呆な話があるか!」
「いいえ、ギルバート警部。自殺ではありません」
シオンは冷徹な眼差しで、時計のアンクル脱進機をピンセットで慎重に指し示した。
「館長が計画していたのは、自殺などではなく――【自作自演の狂言強盗劇】だったのです」
「狂言強盗劇……!?」
「ええ。すべてのピースを、心理的・物理的に再構成すれば、真実はあまりにも明白です」
シオンは立ち上がり、淀みない口調で論理の鎖を紡ぎ始めた。
「第一に、ベルク館長は多額の横領と美術品投機の失敗により、破産寸前に追い込まれていました。彼には、国宝絵画『黄昏の幻影画』に掛けられた莫大な帝国保険金を詐取する、強烈な動機があった。
第二に、怪盗カミーユからの犯行予告状。あれは、館長にとって渡りに船の絶好の隠れ蓑だった。カミーユが千人の観客の前で大掛かりな手品を行うその夜、館長は自らこの修復庫に立てこもり、内側から頑丈な鉄閂を下ろして完全な密室を作り上げた」
「密室を作ったのは犯人ではなく、館長自身だった……!?」
エルネスタが息を呑んだ。
「その通りです。外から侵入されたように見せかけるためではなく、『自分が何者かに襲われて重傷を負い、絵画を奪われた悲劇の被害者』を完璧に演じるための密室です。館長は二十一時ちょうど、時計の重錘が落下する仕掛けを作った。しかし、本来そこにセットされていたのは、鋭利な鋼鉄杭などではなかったはずです」
シオンは血だまりの脇の床の裂け目を指差した。
「先端が尖っていない、ただの平らな真鍮棒。あるいは、軽く肩や腕をかすめて擦り傷を作る程度の、安全なダミーの突起物だった。重錘が落下して床の木箱を粉砕し、大きな音を立てて自らの肩に掠り傷を負わせる。そして床にダミーの脅迫状をばら撒き、気絶したふりをして救助を待つ……。館長はそう証言する手はずだったのです。『予告時刻の二十一時、突如として何者かが地下に現れ、私を襲って意識を奪った』と」
「……っ! だが、現実に館長の胸に突き刺さっていたのは、心臓を一撃で貫通する本物の鋼鉄杭だった!」
ギルバート警部が叫んだ。
「ええ。それこそが、影の演出家による【狂言密室の乗っ取り】です」
シオンの声に、氷のような戦慄が宿った。
「影の演出家は、館長が保険金目当てに狂言強盗を企てていることを、事前に完全に察知していた。そして事件の前日、密かにこの時計に侵入し、二つの恐るべき【細工】を施したのです。
第一の細工は、重錘の先端に取り付けられていた安全な突起を、研ぎ澄まされた本物の鋼鉄杭へとすり替えたこと。
そして第二の細工――これを見てください」
シオンはルーペをアンクル爪車の歯へと当て、エルネスタに手渡した。
エルネスタがレンズを覗き込むと、真鍮製のガンギ車の歯が、一枚だけ、ヤスリで精密に削り落とされているのが見えた。
「歯車の歯が一枚、欠けていますわ……!」
「そうです。時計工学において、ガンギ車の歯を一枚削ると、振り子の往復周期に狂いが生じ、針の進みが意図的に【一分間】遅延します。
本来なら二十一時零分ちょうどに作動するはずだった重錘が、二十一時零分になっても落ちてこない。館長はどう思ったでしょうか?」
「あっ……!」
エルネスタがハッと息を呑み、両手で口元を覆った。
「『仕掛けが故障したのではないか』と不安になり……文字盤の裏のソレノイドや重錘のフックを確認するために、踏み台に乗って、時計の真下へと身を乗り出した……!」
「その通りです。そして二十一時零一分――真下から時計の機構を覗き込んだ館長の頭上から、遅延細工を施された重錘が、容赦なく自由落下した。自らが仕掛けた装置によって、心臓を真上から貫かれたのです!」
修復庫に、重苦しい静寂が満ちた。
自作自演の狂言を企てた強欲な館長。その浅ましい悪意を完全に逆手に取り、被害者自身の手で密室を作らせ、被害者自身の装置を凶器へと変えて処刑した、冷酷無比な完全犯罪。
壁の自記湿度計が二十一時零一分に急上昇していた謎も、重錘が落下した際の激しい衝撃によって、換気ダクトの加湿用スチーム弁が全開になった物理的証拠として、完璧に説明がついた。
「なんて……なんておぞましい悪魔の知能……! 人間の心理の隙をここまで計算し尽くして殺人を実行するなんて……!」
エルネスタが怒りと戦慄に体を震わせた。
シオンは静かに時計の扉を閉じ、藍色の瞳を細めた。
「ええ。被害者の悪意を利用して密室を構築するこの冷酷な手口……。間違いありません。私の兄弟子――フェリクス・アルノーの仕業です」
「だが待て、シオン君!」
ギルバート警部が眉を跳ね上げ、鋭い声で問いかけた。
「密室殺人のカラクリは分かった。だが、肝心の【国宝絵画】はどうなったんだ!? 館長が殺された時、一階の展示ケースからは、確かにあの名画が煙のように消え失せちまったんだぞ!?」




