第88話:地下密室の再検証、消去法という悪魔
深夜二十三時。帝都の街が冷たい闇に沈む中、帝都中央美術館の地下回廊には、乾いた足音が不気味に反響していた。
ホテル・インペリアルでカミーユの身柄を警察の護送車へと引き渡したシオン、エルネスタ、そしてギルバート警部の三人は、再び事件の発端となった現場――地下修復庫の前に戻っていた。
現場保存の黄色いテープが張り巡らされた重厚な鉄扉。
シオンはポケットから懐中電灯を取り出し、扉の閂受け、そして頑丈な真鍮のシリンダー錠の周囲を、舐めるように照らし出した。
「カミーユが犯人ではないとすれば……この密室殺人は、完全に振り出しに戻ったことになります」
エルネスタの張り詰めた声が、湿った地下の空気を震わせる。
彼女のアイスブルーの瞳には、疲労の色と共に、解けない謎への焦燥が滲んでいた。
「昨夜二十一時、美術館にいたすべての人間――警備員、学芸員、そして現場に急行した警察官にいたるまで、全員のアリバイは完璧に成立しています。そして何より、この修復庫は内側から頑丈な鉄の閂が完全に落とされ、すべての換気口には人が通れない頑丈な鉄格子が嵌められていた。外部からの侵入経路は、数学的に【ゼロ】です」
「ああ、お嬢の言う通りだ」
ギルバート警部が太い腕を組み、唸るように顎髭を撫でた。
「鑑識の連中が床から天井までシラミ潰しに調べたが、隠し通路も抜け穴もありゃしねえ。扉の閂だって、外から針金や糸で操作できるような隙間はミリ単位で存在しねえんだ。……まさか、幽霊が館長を刺し殺したとでも言うのかい?」
「幽霊など、この世に存在しません」
シオンは静かに首を横に振ると、手袋をはめた指先で、閂受けの金属表面に触れた。
「物理現象には、必ず原因と結果があります。密室が成立している以上、そこには必ず、施錠を行った主体の明確な意図が存在するのです」
シオンは鉄扉を押し開け、修復庫の中へと足を踏み入れた。
カビと機械油、そして生々しい血の鉄錆の匂いが混ざり合った、冷たい空気が肌を刺す。
部屋の奥にそびえ立つのは、高さ三メートルを超える巨大な黒檀の振り子時計。
その真下のコンクリートの床には、ベルク館長が絶命していた位置を示す白い白線と、黒く凝固した大きな血だまりが、無残な染みとなって残されていた。
床に落ちていた水銀入りの真鍮重錘と、先端に鋭利な鋼鉄杭が溶接された振り子棒は、鑑識によって証拠品として採取されていたが、時計の内部機構はそのままの状態で保存されている。
シオンは床に膝をつき、折りたたみ式の真鍮製ノギスを取り出すと、血だまりの中心点と時計の垂直軸との距離を、ミリ単位で測定し始めた。
「……シオン殿、何を測っていらっしゃるの?」
「死体の位置と、重錘の落下軌道とのズレです」
シオンは計算尺のカーソルを素早く動かしながら、低く呟いた。
「重錘の質量は十五キログラム。落差は二点五メートル。自由落下した場合の着弾エネルギーは、約三百七十ジュールに達します。これは軍用小銃弾の至近距離からの直撃に匹敵する破壊力です。……しかし、ベルク館長の遺体の倒れ方には、どうしても物理的な不自然さが残る」
「不自然さ……?」
「ええ。もし背後から誰かに突き飛ばされたり、不意に上から重錘が落ちてきたのだとすれば、人間は本能的に両手を前に突き出して防御姿勢を取るか、あるいは身を捩って回避しようとします。しかし、館長は両手をだらりと横に広げ、胸を真正面から突き出すような体勢で、重錘の真下に位置していた。まるで……『そこに杭が落ちてくることを自ら望んでいた』かのように」
シオンの言葉に、エルネスタとギルバート警部が息を呑んだ。
深夜の地下室は底冷えが厳しく、吐く息が白く濁っていく。
エルネスタが無意識に両腕を抱き、肩を小さく震わせたのを、シオンの鋭い藍色の瞳が見逃さなかった。
シオンは立ち上がると、迷うことなく自らのウールのコートを脱ぎ、エルネスタの華奢な肩へと優しく羽織らせた。
「あ……シオン殿? そんな、あなたこそシャツ一枚になってしまいますわ……!」
「私の体温なら心配いりません。脳の歯車が高速で回転していますから、むしろ熱いくらいです。風邪を引かれては、明日の捜査に差し支えます」
「も、もう……口ばかり達者なのですから……」
エルネスタは頬を微かに染め、コートの襟元をぎゅっと抱きしめた。
シオンの体温と、ほのかに香る機械油と石鹸の清潔な匂いが彼女を包み込み、冷え切っていた胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
シオンは再び時計の足元へとしゃがみ込み、ルーペを取り出して時計の文字盤の裏側、そして床の血だまりの縁を入念に観察した。
血だまりの端、跳ねた血飛沫に隠れるようにして、床のコンクリートに不自然な『円形の圧迫痕』が四つ、等間隔に残されていた。
「これは……踏み台の跡だ」
「踏み台?」
「ええ。館長は、この巨大時計の文字盤に顔を近づけるために、木製の小さな踏み台をここに置いていた痕跡です。そして……見てください、文字盤の裏側のこの配線を」
シオンがカンテラの光を時計の文字盤の隙間へと差し込んだ。
そこには、時計の歯車機構とは明らかに異質な、近代的なエナメル銅線と、極小のマイクロスイッチ、そして小型のソレノイド電磁石が巧妙に増設されていた。
「時計の時針と分針が重なった瞬間、針の裏の接点が接触し、ソレノイドに微弱な電流が流れて重錘のフックを外す電気的トリガー……。しかし、この工作は……あまりにも稚拙で、素人の手によるものです」
シオンの瞳に、閃光のような確信が宿った。
「影の演出家のような精密機械の天才が、こんな不恰好なハンダ付けをするはずがない。……この仕掛けを作ったのは、時計の専門家ではない人間。すなわち――ベルク館長自身です!」




