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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第87話:「私は殺していない! 殴られたんだ!」

最高級ホテルの豪奢なスイートルームの空気が、一瞬にして凍りついた。

 絨毯の上に崩れ落ち、手錠を嵌められた両手で頭を抱えて号泣するカミーユ・デュプレ。

 その取り乱し方は、自らの罪を逃れようとする悪党の見苦しい芝居などでは決してなかった。魂の底から湧き上がる、死の恐怖と底知れぬ罠に怯える人間の、真実の絶叫だった。


「どういうことなの、カミーユ!? 騙されたとは、一体誰にですの!?」


 エルネスタが眉を吊り上げ、厳しく問い詰める。

 カミーユは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪ませながら、ガチガチと歯を鳴らして震える声で告白を始めた。


「仮面の男だ……! 一ヶ月前、私の前に現れたんだ! 銀色の仮面をつけた、黒マントの演出家が……!」


 シオンの背筋に、氷の刃を突き立てられたような冷たい戦慄が駆け抜けた。


「影の演出家……!」


「そうだ! あいつは言ったんだ……『ベルク館長に奪われた先祖の至宝を取り戻したくはないか? 千人の観客が証言する、絶対に崩れない鉄壁の不在証明を授けてやろう』と……! 私はあいつから、あの大講堂の光学装置と設置図面を、全財産を投じて買い取ったんだ!」


「では、やはりあなたがその装置を使って演壇に虚像を映し出し、美術館へ――」


「違うんだよ! 話を聞いてくれ!」


 カミーユは喉を引き裂くように絶叫した。


「昨夜、開演の直前だ! 二十時四十分頃、私は三階の旧映写室で装置を起動し、緊張しながらスタンバイしていた! そこへ見知らぬ給仕の男がやってきて、『開演前の景気づけに、最高級の香草を詰めた煙管をお届けします』と、私の銀の煙管に火をつけて手渡してきたんだ!」


 シオンの脳裏で、映写室の灰皿に残されていた『吸い口が乱暴に千切れた煙管の吸い殻』の映像が鮮烈にフラッシュバックした。


「その煙管を吸ったのか、カミーユ!?」


「二口吸ったところで……急に視界が暗くなって、手足が鉛のように重くなった! そして――背後から、鉄パイプのような重い鈍器で、後頭部を思い切り殴られたんだ!!」


 カミーユが必死に頭を下げると、その豊かな黒髪をかき分けた奥に、ざっくりと皮膚が裂けた生々しい打撲痕と、赤黒く乾いた血の塊が露わになった。

 ギルバート警部が息を呑み、即座に手袋の手で傷口を検分する。


「……本物だ。頭蓋骨に亀裂が入るほどの凄まじい一撃を食らってやがる。傷口の挫滅状態から見ても、昨夜の二十時四十分前後に、何者かに背後から不意打ちで殴打された傷に間違いねえ!」


「気がついた時には……時計の針は二十一時半を回っていたんだ!」


 カミーユは床に額を擦りつけ、嗚咽を漏らしながら震え続けた。


「頭は割れるように痛むし、映写室の外側からは頑丈な閂が掛けられていた! 非常用の換気梯子から血まみれになって這うようにして講堂を脱出し、ホテルへ戻ってきたら……ラジオのニュースでベルク館長が殺され、絵画が消えたと知ったんだ! わけが分からない! 私はずっと、映写室の冷たい床の上で血を流して気絶していたんだぞ!!」


「そんな……馬鹿な……!」


 エルネスタが息を呑み、呆然としてシオンを振り返った。

 もしカミーユのこの告白が真実であるならば――。

 昨夜二十時四十五分から二十一時十五分までの三十分間、大講堂の千人の観客の目の前で、堂々と華麗な手品を披露し、演説を行い、三階映写室で光学投影機を操作し続けていたのは……一体誰だったのか!?


「……嵌められたんだ」


 シオンの低く、震える声が静まり返った部屋に落ちた。

 シオンの全身を、かつてないほどの激しい戦慄と、底知れぬ怒りの炎が駆け巡っていた。


「影の演出家は、最初からカミーユに絵を盗ませる気など毛頭なかった。……カミーユに不在証明の装置を大金で買い取らせ、事件当夜に彼を背後から殴り倒して、身代わりの犯人に仕立て上げたんだ」


「じゃあ……あの千人の観客の前で投影機を動かし、カミーユの立体虚像を演壇に映し出していたのは……!?」


「影の演出家本人か、あるいは奴に雇われた共犯者だ。……奴はカミーユの不在証明をわざと粗雑に細工し、私に解体させたんだよ!」


「な……何のためにですの!?」


「警察の捜査の目を、カミーユという極めて分かりやすい容疑者に完全に釘付けにするためだ。……私たちがカミーユの不在証明崩しに全力を注いでいる間、真犯人は誰にも邪魔されることなく――本物の国宝絵画を持ち去り、地下修復庫の館長を確実に処刑することができた!」


 シオンの藍色の瞳が、冷徹な光を帯びて細められた。

 思考の歯車が、恐るべき速度で新たな真実を紡ぎ出していく。


「カミーユの不在証明が偽装の舞台劇だったとすれば……真の問題はここからです。なぜベルク館長は、あのような厳重極まりない地下修復庫の【二重密室】の中で殺されなければならなかったのか? そして、なぜ巨大な振り子時計の真下だったのか……? 影の演出家の真の凶行現場は、大講堂ではなく、最初からあの地下密室だったんだ!」


 大講堂の千人の目撃証言。

 それはカミーユを守るための不在証明などでは決してなかった。

 警察とシオンの視覚と思考を完全にジャックし、真の凶行現場から目を逸らさせるための――あまりにも巨大で冷酷な【陽動の舞台装置】だったのだ!

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