第86話:高級ホテルの包囲網と、追い詰められた奇術師
朝の光が濡れた石畳を白く輝かせる中、数台の警察用装甲馬車がけたたましい警笛を鳴らしながら帝都中央通りを疾走していた。
馬車の車内、対面に座るエルネスタはサーベルの鞘を確かめながら、硬い表情で窓の外を見つめていた。
「シオン殿。気にかかることがありますわ」
「特捜監査官ハルトマンの動向ですね?」
「ええ。あれほど美術館の現場で私たちを敵視し、強権を振るっていたハルトマンが、先ほどの警察本部の緊急会議に一切姿を見せませんでした。彼ほどの男が、これほど重大な容疑者確保の現場を欠席するなど、到底考えられません」
「裏で何か別の糸を引いていると見るべきでしょう。……ですが今は、目の前のカミーユを確保し、消えた絵画と密室殺人の証言を引き出すことが先決です」
馬車が急ブレーキと共に停車した。
目的地は、帝都屈指の格式を誇る最高級ホテル『ホテル・インペリアル』。
各国の王族や大貴族が定宿とする白亜の巨城のような豪壮な建築の前に、完全武装の警察隊が次々と展開し、正面玄関およびすべての非常口を瞬く間に完全封鎖した。
ロビーにいた宿泊客たちが悲鳴を上げて避難する中、エルネスタを先頭に、シオンとギルバート警部率いる精鋭部隊が、最上階の特別スイートルームへと駆け上がる。
「部屋の周囲は完全に固めたぜ、お嬢! 鼠一匹逃がしはしねえ!」
「突入します! 全員、銃を構えなさい!」
ドガァンッ!!
ギルバート警部の強烈な蹴りによって、金箔の装飾が施された豪奢な白樺の扉が跳ね飛ばされた。
ペルシャ絨毯が敷き詰められた広大なリビングルーム。クリスタルのシャンデリアが天井で煌めき、大理石のテーブルの上には飲みかけの高級シャンパンが放置されていた。
部屋の中央で、巨大な革張りのトランクに札束と貴金属、そして偽造パスポートを慌ただしく詰め込んでいた男が、血相を変えて弾かれたように振り返った。
天才魔術師、カミーユ・デュプレだった。
普段の優雅な真紅の裏地のコートは脱ぎ捨てられ、白シャツの胸元を乱雑にはだけさせたカミーユは、部屋に雪崩れ込んできた無数の銃口を見て、愕然と立ち尽くした。
「な、何だ貴様らは……!? 無礼な! 私は帝都の至宝と呼ばれる芸術家だぞ! 警察風情が何の真似だ!」
「動くな、カミーユ・デュプレ!」
エルネスタが腰のサーベルをすらりと抜き放ち、その鋭い切っ先をカミーユの喉元へと突きつけた。凛とした声が、豪奢な部屋に響き渡る。
「帝都中央美術館ベルク館長殺害、ならびに帝国国宝『黄昏の幻影画』窃盗の容疑で、貴方を逮捕します!」
「は……ははっ! 何の冗談だい、白薔薇のお嬢さん!」
カミーユは引き攣った嘲笑を浮かべ、わざとらしく両手を大げさに広げてみせた。だが、その指先は微かに震えていた。
「私を逮捕だと? 寝言はベッドで言ってくれ! 言ったはずだ、私には千人の観客という絶対の目撃者がいる! 昨夜二十一時、私は大講堂の演壇で千人の観客の前に立ち、華麗な手品を披露し続けていたんだ! 警察の鑑識も、時間的に私が美術館へ行くことなど不可能だと認めたはずだぞ!」
「いいえ、カミーユ氏。手品はもうおしまいです」
警察官たちの列を割り、シオンが静かに一歩前へと歩み出た。
その冷徹な藍色の瞳に射すくめられ、カミーユの顔から嘲笑がピクリと凍りつく。
「大講堂三階の旧映写室に残されていた、シュミット式非球面凹面鏡と高輝度アーク放電灯。そして天井裏を這っていた百メートルの石英光ファイバーケーブル……。さらに演壇の床下に隠されていた超音波ピエゾ素子と微細ミストノズル。すべて、警察が証拠品として押収しました」
「……っ!?」
「あなたが昨夜二十一時に演壇に立っていなかったことは、ステンドグラスの青い光の影の欠損、そして音声信号のコンマ零五秒の伝送遅延によって、完全に物理的に証明されました。……あなたは映写室から自らの立体虚像を演壇へ投影し、その隙に大講堂を抜け出して美術館へ向かった。そして館長を殺害し、絵画を奪った。違いますか?」
シオンの突きつけた言葉は、カミーユの逃げ道を完全に塞ぐ冷厳な死刑宣告だった。
カミーユの顔から急速に血の気がサーッと引き、唇が小刻みに痙攣を始める。
「な……なぜだ……。なぜ貴様に、あの仕掛けの存在が分かる……!?」
「あなたの手品が優れていたからではありません。あなたが使ったあの光学装置は――十年前、私の恩師クラウス・フォン・エルロードが設計した試作機そのものだったからです」
「クラウス……!? あ、あいつの……恩師だと……!?」
カミーユが呻くように呟き、その場によろめいた。
エルネスタが冷たい手錠を取り出し、カミーユの手首へと歩み寄る。
「観念なさい、カミーユ。法の裁きを受け、消えた国宝絵画をどこへ隠したのか、すべて白状しなさい」
カチャリ、と冷たい真鍮の手錠がカミーユの両手首に嵌められた、その瞬間だった。
カミーユの瞳から、傲慢な奇術師のプライドが完全に消え去り――耐え難い恐怖と絶望の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ出した。
「違う……違うんだぁぁぁっ!!」
カミーユは絨毯の上に両膝をつき、狂乱したように叫び声を上げた。
「私は殺していない! 絵も盗んでいない! 私は……騙されたんだぁぁっ!!」




