第9話:貴族街の悲鳴~バローニ侯爵邸の密室毒殺~
午前九時。
貴族街『白亜の丘』の中央にそびえ立つバローニ侯爵邸は、厳戒態勢の帝国警察官と憲兵隊によって完全に封鎖されていた。
白大理石の豪奢な正門の前には、下町から押し寄せた野次馬と、黒い外套を羽織った数十名もの新聞記者が群がり、怒号とカメラのマグネシウム閃光が爆発音と共に閃いていた。
「どけ! 警察の現場検証だ! 捜査の邪魔をする奴は公務執行妨害でぶち込むぞ!」
太く濁った怒声を張り上げながら、屈強な巡査たちの包囲網を押し分けて屋敷のエントランスへと大股で踏み込んでいく一人の男がいた。
帝国警察本庁刑事課・捜査第一係長のギルバート警部(四十五歳)。
仕立ての崩れた泥色のトレンチコートに、擦り切れた革靴。無精髭の濃い顎を撫で、火のついていない安煙草を口の端にくわえたその佇まいは、貴族の華やかな屋敷にはおよそ不似合いな野良犬の風格を漂わせていた。だがその鋭い眼光は、帝都のあらゆる凶悪犯を震え上がらせてきた叩き上げの敏腕刑事の放つ凄味を宿していた。
「警部! お待ちしておりました!」
現場の鑑識主任が、額に脂汗を浮かべて駆け寄ってくる。
「状況はどうだ、鑑識。本当に毒殺なのか? あの強欲な守銭奴侯爵が、金貨を喉に詰まらせて死んだってわけじゃねえんだろうな」
「笑い事じゃありませんよ、警部! 被害者はバローニ家当主アントニオ侯爵、五十八歳。西棟二階の最奥、侯爵個人の執務室兼寝室で発見されました。……あまりに凄惨なホトケです」
ギルバートは靴に布カバーを掛け、鑑識の先導で西棟の大階段を上がった。
東棟の煌びやかな装飾とは一変し、西棟の廊下は冷え切った墓所のような静寂と威圧感に満ちていた。壁は厚さ五十センチを超える硬質な花崗岩。すべての窓には分厚い鉄格子が溶接され、防犯ベルの真鍮線が張り巡らされている。
そして――廊下の最奥。
分厚いオーク材で作られた私室の扉が、大工道具の斧で無残に叩き割られ、中央に大人が一人通れるほどの巨大な裂け目が口を開けていた。
「……ここだな」
ギルバートは身を屈め、砕けた木片を跨いで部屋の中へと足を踏み入れた。
広大な部屋だった。床には贅を尽くした深紅のペルシャ絨毯が敷かれ、壁一面には帳簿や古典籍が並ぶ黒檀の本棚。
そして――部屋の中央、豪華な革張りの安楽椅子に、巨大な影が沈み込んでいた。
アントニオ・フォン・バローニ侯爵。
金糸の刺繍が施されたシルクのガウンを纏った肥満体の巨躯。
だが、その顔面は死の苦悶によって見るも無残に引き攣り、皮膚は酸素欠乏によって土気色を通り越し、不気味な暗赤色に変色していた。
カッと見開かれた両目は血走り、濁った瞳孔は虚空を睨みつけている。紫に変色した分厚い唇の端からは、粘り気のある白い泡と黒ずんだ胃液が垂れ落ち、顎から胸元のガウンへと乾いた染みを作っていた。
部屋全体を満たす、甘く鼻を突く特異な臭気――焦げたアーモンドのような、猛毒のサイン。
「……青酸カリウムだな。典型的な急性青酸中毒の所見だ」
ギルバートは顔をしかめ、手袋をはめた指で死体の首筋に触れた。皮膚は氷のように冷たく、死後硬直によって筋肉は石のように硬化していた。
「机の上をご覧ください、警部」
鑑識が指差したのは、マホガニーの重厚な執務机の上だった。
最高級バカラ製のクリスタルロックグラスが一つ。底にわずか数滴、琥珀色の液体が残されている。
そのすぐ脇には、帝都の一流貴族しか口にできない幻の年代物ブランデー『ルイ・クロノス』のクリスタルボトル。
ボトルの鉛の封蝋は綺麗に剥がされ、琥珀色の液体が三分の一ほど減っていた。
「グラスの底の液体から、極めて高濃度の青酸反応が出ました。被害者は昨夜、このグラスのブランデーを口に含み、わずか数十秒のたうち回って呼吸筋麻痺を起こし、心臓停止に至ったと見られます」
「ボトルの酒にも毒が入っていたのか?」
「それが……奇怪なことに、ボトルの中のブランデーからは毒物は一切検出されませんでした。純度百パーセントの極上の酒です。毒が入っていたのは、侯爵が口をつけた【グラスの中だけ】なんです」
「なに……? ボトルには毒がなくて、グラスにだけ毒が入ってただと?」
ギルバートは鋭く目を細めた。
「グラスの内側に、あらかじめ毒の粉末が塗ってあったのか?」
「それも調べましたが、グラスの内壁にも底にも、事前に毒を塗布した形跡はありませんでした。指紋も侯爵本人のものだけです。……まるで、侯爵が酒を注いだその瞬間、誰かが目の前で直接グラスの中に毒を投入したかのような状況です」
ギルバートの背筋に、冷たい緊張が走った。
事前に毒入りの酒を用意して放置したのではない。犯人は、侯爵が酒を注ぐまさにその場に居合わせ、毒を混入させたか、あるいは無理やり飲ませたのだ。
だが――ギルバートは振り返り、斧で叩き割られた扉の無残な残骸を見つめた。
「おい、鑑識。……この部屋の鍵は、どうなっていた?」
鑑識主任は顔から血の気を引かせ、乾いた喉を鳴らした。
「それが……警部。この部屋は、外からの侵入も脱出も物理的に不可能な……完全なる【密室】だったんです」




