第8話:翌朝の静寂、下町に響き渡る警笛のサイレン
翌朝。
帝都ルミナリアの空は、重苦しい鉛色の雲に覆われ、煤煙と湿り気を帯びた冷気が石畳の底から這い上がっていた。
『クロノス堂』の薄暗い工房の中、シオンは一睡もしていなかった。作業台の真鍮製ランプの油は燃え尽きかけ、煤けたガラスホヤの先端から灰色の煙が細く揺らめいている。
樫の木の机の上には、昨夜からシオンが一心不乱に書き殴った何枚もの計算用紙が散乱していた。
暖炉の無煙炭が放つ熱伝導曲線。真鍮ロッドの熱膨張率と収縮の時系列シミュレーション。ガンギ車の摩擦係数の増大モデル。
シオンは右目にキズミを嵌めたまま、微動だにせず、ただ壁の古時計たちが刻む午前八時三十分の金属音に耳を澄ませていた。
胸の奥に渦巻く、冷たく重い嫌な予感。それは、秒針が進むごとに確信へと変わりつつあった。
――ファン、ファン、ファーーーーン!
突如、静まり返っていた下町の朝気を切り裂いて、耳を劈くような高音の蒸気警笛のサイレンが鳴り響いた。
一台ではない。二台、三台――地響きのような重低音が続く。
濡れた石畳を猛烈な勢いで踏み鳴らす重装備の軍馬の蹄の音。そして、高圧蒸気ピストンが吐き出すシュシュシュという激しい排気音。
帝国警察本庁の特別警邏隊が誇る、黒漆塗りの装甲蒸気馬車が、砂煙と泥水を派手に跳ね上げながら『真鍮小路』の大通りを貴族街方面へと猛スピードで疾走していった。
「な、なんだなんだ!? 朝っぱらから警察が血相を変えて……!」
「貴族街の丘の方へ向かっていったぞ! 大火事か!? それとも過激派の暴動か!?」
路地に面した長屋の窓が次々とガラガラと開き、鍛冶屋や革なめし職人たちが驚きと不安の混じった顔を突き出している。通りを歩く行商人たちも足を止め、物々しい警察車両の車列を息を呑んで見送っていた。
カランコロン!
工房のドアベルがけたたましい音を立てて鳴り響き、冷たい朝風と共に、息を切らせたトビーが転がり込んできた。泥だらけのブーツ、乱れた髪。その小さな手には、まだインクの生乾きの匂いが漂う、刷り上がったばかりの新聞の号外が固く握りしめられていた。
「親方! 大変だ! 街の辻という辻で、新聞売りが号外をばら撒いてる! これ、見てくれよ!」
トビーの声は恐怖で上ずり、小刻みに震えていた。
シオンはキズミを静かに外すと、無言でトビーから湿った紙面を受け取った。
一面のトップに躍る、墨黒の巨大な見出し。
『帝都震撼! 大富豪バローニ侯爵、自邸の完全密室にて怪死!』
『昨夜遅く毒殺か!? 内側から鉄の閂で厳重に施錠された私室で発見!』
『巨額の負債証書が金庫から消失――警察庁、特命殺人事件として捜査本部を設置!』
活字のインクが、シオンの網膜に焼き鏝のように焼き付いた。
昨夜遅く。完全密室。毒殺。借用書の強奪。
すべてが――昨夜、シオンがジュリアンの冷酷な笑みから予見した最悪の惨劇と、寸分の狂いもなく一致していた。
「親方……?」
トビーが怯えたような瞳で、シオンの青ざめた横顔を覗き込んできた。
「これって……昨日の昼、親方が時計の点検に行った、あのバローニ侯爵の屋敷だよね……? 侯爵が毒で殺されたって……あんなに憲兵が見張ってる要塞みたいな屋敷の中で、一体誰が……」
「……ジュリアンだ」
「えっ……?」
シオンの口から漏れた声は、自分でも驚くほど低く、地獄の底から響くように掠れていた。
新聞の紙面を握りしめる指先に、ギリギリと激しい力が籠もる。上等な繊維で漉かれた洋紙が、シオンの握力によって無残に引き裂かれ、乾いた音を立てて千切れた。
激しい怒りと、自らへの許しがたい嫌悪が、シオンの全身の血液を沸騰させていた。
自分の誇り高き時計工学が。
亡き恩師クラウスから受け継ぎ、誰よりも愛し、神聖な秩序として研ぎ澄ませてきた精密機械の技術が。
実の父親の息の根を止め、巨額の遺産を独占するための、鉄壁のアリバイ工作として利用されたのだ。
「(あいつは……平民の恋人を救うためなどと嘘をつき、私の時計を親殺しの凶器にした……!)」
十年前の悪夢が、シオンの脳裏をよぎる。
帝都大時計塔の火災。燃え盛る業火の中で事切れた恩師の姿。あの時も、何者かの卑劣な陰謀によって、時計の機構が悪用され、無実の命が奪われたのだ。
そして今また、自分の手で組み上げた歯車が、一人の人間の命を奪うための共犯者となってしまった。
もし昨夜、青年の目の泳ぎに気づいた瞬間に依頼を撥ねつけていれば。
もし昨日の夕方、ジュリアンの嘲笑を聞いた瞬間に警察へ飛び込んでいれば。
後悔の刃が、シオンの胸を容赦なく切り刻む。だが、警察に駆け込んだところで、証拠もなしに下町のしがない時計屋の告発を信じる者などいるはずがなかった。
「親方……? 手が……手が血が出るほど震えてるよ……?」
トビーが涙目になって、シオンの震える拳を両手で包み込んだ。
少年の手の温もりに触れ、シオンはハッと我に返った。
深呼吸を一つ。乱れていた呼吸を無理やりに整え、シオンはトビーの目を見つめた。
「トビー。今から言うことを、冷静に聞きなさい。……間もなく、警察がこの店に来る」
「えっ……!? な、なんで警察がクロノス堂に来るんだよ!? 親方は人を殺したりなんかしてないのに!」
「私が昨日、侯爵邸に出入りしたことは、老執事や門番が目撃している。警察の捜査線上に、私の名が浮かぶのは時間の問題だ。そして――あのジュリアンという男は、自分が疑われそうになれば、平気で私を共犯者として警察に売り渡すだろう」
シオンは作業台の奥の金庫を開け、昨夜ジュリアンから受け取った金貨五十枚と、前金の五十枚――合計百枚の純金が入った二つの革袋を取り出した。
そして、壁に掛けられたもっとも古い大型の柱時計へと歩み寄る。
振り子の下部にぶら下がる、重さ十キロの真鍮製のシリンダー。シオンはマイナスドライバーで底部の隠しネジを緩め、中空のシリンダーの中に、金貨の袋を音もなく滑り込ませた。ネジを締め直せば、外見からは単なる重量バランスの重りにしか見えない。
「この金貨の存在は、誰にも知られてはならない。トビー、お前は何も知らない。昨日の客のことも、私がどこへ行ったかも、『親方は一日中、店で時計の歯車を削っていた』とだけ答えなさい」
「で、でも、おいら……親方に嘘の片棒を担がせるなんて……!」
「お前を守るためだ、トビー。いいな? 私を信じなさい」
シオンの強い眼差しに、トビーは唾を飲み込み、ぎゅっと唇を噛み締めて頷いた。
シオンは机の上の計算用紙をすべてかき集めると、奥の薪ストーブの扉を開け、燃え盛る炎の中へと投げ入れた。
シュルシュルと音を立てて黒く丸まり、灰燼へと帰していく精密な数式。
だが、シオンの頭脳の中には、すべての数値、熱伝導のタイムラグ、そして振り子の狂いの軌跡が、消えることのない焼き印のように鮮明に刻み込まれていた。
「……解体してやる」
ストーブの赤い炎を瞳に反射させながら、シオンは氷のように冷たく呟いた。
「あいつが私の技術を悪用して組み上げた完全犯罪を……この手で、一分一秒の狂いもなく論理的に粉砕してやる」




