第7話:完璧な納品と、青年の瞳に宿る冷たい光
午後五時。
秋の落日は釣瓶落としのように早く、貴族街『白亜の丘』の壮麗な白亜の屋敷群は、血のように赤黒い夕暮れの残光に呑み込まれようとしていた。
大理石の門柱や彫像が長く引き伸ばされた黒い影を落とし、まるで墓標が立ち並ぶ巨大な霊園のような不気味さを漂わせている。空にはねぐらへと急ぐカラスの群れが、不吉な鳴き声を響かせながら旋回していた。
バローニ侯爵邸の西側にある裏門。
シオンは黒い外套を羽織り、工具箱を提げて冷たい石壁の影に立っていた。
見送りに現れたジュリアンは、マントの懐から重い革袋を取り出すと、周囲を警戒するように素早く視線を走らせ、シオンの掌へと滑り込ませた。
昨夜の前金と同額――純金の大金貨五十枚。
ずっしりとした金属の重量が、冷たい手袋越しにシオンの掌に重く沈み込んだ。
「約束の残金だ。……見事な仕事だったぞ、シオン。時計の針は、今も完璧に、狂いなく秒を刻んでいる」
「お役に立てて光栄です。くれぐれも、暖炉の火加減と消火のタイミングをお間違えなきよう。温度が上がらなければ、時間は歪みません」
シオンは儀礼的な一礼をし、背を向けて裏門の外の砂利道へと歩み出そうとした。
――その時だった。
夕闇の赤黒い残照を浴びたジュリアンの横顔が、ふとシオンの視界の端をかすめた。
青年の口元が、醜悪に歪んでいた。
昨夜、工房に駆け込んできた時の、あの怯えきった悲劇の息子の顔はそこには微塵もなかった。
血走った瞳の奥に宿っていたのは、愛する平民の恋人を想う純真な熱情などではない。
自らの邪魔者を排除し、巨額の遺産と侯爵家の権勢を手中に収めんとする者が浮かべる――底知れぬ冷酷な、捕食者の笑みだった。
「……ふふ、くくっ……あははは……」
ジュリアンはシオンが去っていく背中に向けて、夕風に紛れるほどの極小の囁き声で、低く呟いた。
「ありがとうよ、下町の時計屋。お前のおかげで……あの憎たらしい強欲な老いぼれを、今夜確実に地獄へ送れる。……僕の不在証明は、完全無欠だ」
その言葉は、冷たい秋の突風に乗って、シオンの鋭敏な耳介をはっきりと震わせた。
シオンの足が、凍りついたようにピタリと止まる。
心臓が、氷の刃で貫かれたように冷え切った。
「(……恋人との密会ではない)」
背筋を駆け上がる猛烈な悪寒。
シオンは振り返らなかった。だが、頭の中で昨夜から現在に至るすべての状況証拠が、冷徹なパズルとなって一瞬で組み換わっていくのを、戦慄と共に自覚していた。
ジュリアンの指先に付着していた無煙炭の煤。
書斎の机の引き出しの奥、本に隠されるように置かれていた、極細の真鍮製ピアノ線。
そして、父親であるバローニ侯爵が今夜、屋敷の反対側の棟にある完全密室の私室で、一人きりで過ごすという事実。
「(あいつの目的は……父親の殺害だ。最初から、実の父親を毒殺するための鉄壁のアリバイとして、私の技術を利用したのか……!)」
激しい怒りと、自らへの深い自責の念が、シオンの胸の奥でマグマのように煮えたぎった。
だが、今ここで踵を返してジュリアンを問い詰めたところで、相手は帝国有数の権勢を誇る大富豪の長男であり、自分はしがない下町の時計修理屋にすぎない。「言いがかりをつけて金を強請ろうとした」と騒がれれば、憲兵に逮捕され、闇に葬られるのは自分の方だ。
シオンは奥歯をギリリと噛み締め、爪が掌に食い込んで血が滲む痛みに耐えながら、何事もなかったかのように静かに歩みを再開した。
――だが、シオンはただ無力に敗北を受け入れたわけではなかった。
コートのポケットの中に、シオンは密かに二つの「決定的な証拠」を確保していた。
一つは、ジュリアンの書斎の暖炉の底から、靴底に付着させるふりをしてピンセットで採取した【無煙炭と特製消火粉末の灰の微小サンプル】。
そしてもう一つは、シオン自身の手帳に克明に記録された、本日のバローニ侯爵邸の室温、湿度、振り子ロッドの正確な熱膨張係数、そして時間遅延曲線の【詳細な物理計算データ】だ。
「もし……万が一、あいつが本当に人を殺すために私の時計を使ったのだとしたら……」
シオンは夕暮れの坂道を下りながら、夕闇の空に向かって低く呟いた。
「私が作った嘘は……世界で私だけが、完全に解体できる。……絶対に、私の時計を殺人の道具になどさせはしない」
時計職人としての誇り。
自分の手で組み上げた神聖な時間を、他人の命を奪うための凶器として汚されることへの、決して許すことのできない激しい憤怒。
――下町『真鍮小路』へ戻った頃には、街は完全に濃い夜霧と石炭の煙に包まれていた。
クロノス堂の扉を開けると、工房の奥からトビーが小走りで駆け寄ってきた。
「親方! おかえり! 遅かったね、貴族の屋敷の大時計、無事に直せたの?」
「……ああ。狂いを正してきたよ、トビー」
「なんか……顔色がすごく青いよ? 貴族の旦那に嫌なことでも言われたの?」
「いや……何でもない。トビー、今夜はもう店じまいだ。表の看板を下げて、真鍮のシャッターを下ろしなさい」
「えっ、まだ夜の八時前だよ? いつもならこれからが一番集中できる時間だって、親方言ってたじゃないか……」
「いいから、指示に従いなさい。今夜は……帝都の空気が重すぎる。嫌な胸騒ぎが消えないんだ」
トビーはシオンのただならぬ気迫に呑まれ、「う、うん……わかったよ」と小走りで表の看板を片付けに出ていった。
シオンは一人、薄暗い工房の作業台の前に立ち尽くした。
壁一面の古時計たちが、カチ、コチ、カチ、コチと、無慈悲な足音のように時を刻み続けている。
夜の九時が、刻一刻と近づいていた。
今、この瞬間にも、バローニ侯爵邸の書斎で暖炉に火がくべられ、狂わされた時間が動き出そうとしている。
そして――運命の歯車は、帝都を揺るがす凄惨な密室殺人へと向かって、音もなく回転を始めた。




