第10話:現場の密室構造~内側から降ろされた鉄の閂~
「密室だと……? ふざけるな。この帝都で密室殺人なんて、三流の安探偵小説の中だけにしてほしいもんだな」
ギルバート警部は忌々しそうに安煙草を奥歯で噛み締め、砕かれたオーク材の扉の残骸へと重い足取りで歩み寄った。
擦り切れたコートの裾を翻し、身を屈めて現場の敷居を睨みつける。現場鑑識主任の若い捜査員が、額にじっとりと脂汗を浮かべながら、手元のバインダーを震わせていた。
「説明しろ、鑑識。どこがどう密室なんだ。鍵の構造はどうなっている」
「は、はい……まず、この出入口の扉をご覧ください。外側からは、開ける手段が構造上そもそも存在しないのです」
鑑識主任が指差したのは、破壊されたオーク材の扉の、内側の機構だった。
扉自体が、ただの板ではない。外側と内側に厚さ三センチの硬化オーク材を用い、その中間に一枚の防弾鋼板を挟み込んだ特注の三層サンドイッチ構造だ。叩き割られた中央の裂け目からも、鈍く光る鋼鉄の板が覗いている。
そして――内側の中央に据え付けられていた施錠装置は、一般的な真鍮のシリンダー錠や鍵穴などではなかった。
「幅十五センチ、厚さ四センチ、鍛造鉄で作られた無骨な【落とし閂】です。重量を測りましたが、これ単体で五点二キロあります」
壁の花崗岩に深く打ち込まれた真鍮製の頑丈な受けソケットに、重厚な鉄の角棒が、上からガチャンと落とし込まれていたのだ。
五キロを超える鉄の重量と、摩擦抵抗。部屋の内側に立つ人間が両手でしっかりと掴んで上に持ち上げない限り、外側から扉にどれほど体重をかけて体当たりしようが、微動だにしない。
「外側をご検分ください、警部。外側には、扉を手前に引くための真鍮の取っ手があるだけで、鍵穴すら開いていません。外からマスターキーを差し込んでピッキングするなどという芸当は、構造的に百パーセント不可能です」
「……隙間はどうだ? 古典的な手口だ。扉の隙間から細いワイヤーやピアノ線、あるいは特殊な紐を差し入れて、内側の閂を引っ掛け、外から引き下ろすような仕掛けはできねえのか?」
ギルバートが鋭く問うと、鑑識主任は首を左右に激しく横に振った。
「それも真っ先に検証しました。ですが不可能です。扉の四方には、隙間風や音漏れを完全に防ぐための分厚い硬質羊毛フェルトパッキンが、金属レールで隙間なく密着施工されています。扉の下と敷居の隙間をシックネスゲージで測定しましたが、わずか零点八ミリ。名刺一枚滑り込ませるのが精一杯です。五キロの鉄の閂を外から糸で吊り上げるための隙間もなければ、滑車をかけるような支点も部屋の内側には一切ありません」
老執事セバスチャンが、青ざめた唇を震わせながら背後から補足した。
「バローニ侯爵様は……極度の人間不信でいらっしゃいました。夜間、自分が眠っている間に暗殺者や泥棒が侵入することを病的なまでに恐れておいでで……三年前、大金を投じてこの西棟の私室を要塞化されたのです。夜十時を過ぎて侯爵様がこの閂を下ろされたら最後、翌朝侯爵様ご自身が内側から閂を上げない限り、神仏であってもこの部屋に入ることは叶いません」
「その結果がこれか。自分が作った完璧な要塞の中で、毒を煽って死んじまったわけだ」
ギルバートは鼻を鳴らし、部屋の反対側にある窓へと目を向けた。
私室の南側、手入れの行き届いた広大な庭園を見下ろす位置に、三連の美しい尖頭アーチ窓が並んでいる。秋の冷たい朝の光がガラス越しに差し込んでいた。
「窓はどうだ? 庭から梯子をかけて侵入した痕跡は?」
「窓も完全に密閉されていました。ガラスは厚さ二センチの防弾複層合わせガラス。ハンマーで叩いてもヒビが入るだけの特殊硝子です。そして内側の中央には、真鍮製の頑丈な回転カムロック(クレセント錠)が、二重に固く締められていました。外側には、大人の頭すら通らない間隔で、太さ二センチの鍛鉄製格子が外壁の花崗岩に直接鉛で溶接されています。格子の切断痕も、ヤスリをかけた跡も一切ありません」
「暖炉の煙突は?」
「暖炉の煙道内部には、防鳥用および侵入防止用の鋳鉄グリッドが二重にボルト留めされています。隙間は五センチ角。人間はおろか、子猫一匹通り抜けることはできません。煙突内部の煤を調べましたが、何かが擦れたような形跡はなく、古いクモの巣が綺麗に残っていました」
「隠し通路、どんでん返し、床板の抜け穴は?」
「音響打診テストを実施済みです」
鑑識主任が小型の真鍮ハンマーを軽く振ってみせた。
「床のオーク無垢材、壁の花崗岩、天井の漆喰。すべてを打診しましたが、反響音に一切の異常はありませんでした。完全な中実構造です。抜け穴や地下道は存在しません」
出入口は、外側に鍵穴すらなく、内側から五キロの鉄の閂で封鎖されている。
窓は防弾ガラスと内側からの二重ロック、そして外側には強固な鉄格子。
煙突には二重の鉄網。抜け穴もなし。
さらに、クローゼットや書架の裏など、部屋の中のあらゆる死角を捜索したが、犯人が隠れている形跡は微塵もなかった。
「完全な密室……物理的侵入も脱出も不可能な、完璧な密閉空間です」
鑑識主任の言葉に、部屋を取り囲んでいた巡査たちから、恐怖に怯えるような吐息が漏れた。
「悪魔の仕業だ……」「侯爵様は、魂を奪われたんだ……」
「黙れ! 間抜け面してオカルトを抜かすな!」
ギルバートの一喝が、凍りついた部屋の空気をピシャリと叩き割った。
ギルバートは口の端の安煙草を床にペッと吐き捨て、革靴の先で踏み躙った。
「悪魔が毒薬の小瓶を持って夜這いに来るわけがねえだろうが。人間が死んでるんだ。殺したのも絶対に人間だ。……おい、自殺の線はどうなんだ? 侯爵が自分で閂を下ろし、自分でグラスに毒を入れて一気に飲み干した……それなら密室だろうが何だろうが辻褄が合うじゃねえか」
「それも検討しましたが……警部、こちらをご覧ください」
鑑識主任が歩み寄ったのは、部屋の北側の壁面だった。
名画の掛けられた額縁が横にスライドされ、その奥に据え付けられた頑丈な壁埋め込み式金庫が露わになっていた。
クロム鋼の分厚い金庫の扉は、何者かの手によって大きく開け放たれていた。
そして――金庫の中の棚は、完全に空っぽだった。
床の上には、書類を束ねていたはずの真鍮の留め具や、切断された赤い封蝋の破片が、無残に散らばっている。
「老執事の証言によれば、この金庫の中には、侯爵が帝都の貴族や商人たちに貸し付けていた【巨額の負債証書】と、政界の裏帳簿が保管されていたとのことです。それが……丸ごと綺麗に消失しています」
「……借用書の強奪か」
「はい。自殺する人間が、死ぬ直前に自分で金庫を開け、自分の大事な借用書をどこかへ消し去るなどということはあり得ません。犯人は確実にこの部屋に入り、侯爵を毒殺し、金庫から重要書類を奪い去ったのです。そして――内側から鉄の閂を下ろして、煙のように消え失せた」
ギルバートは唸り声を上げ、眉間の皺を深く刻んだ。
現場には、被害者の死体と、毒の入ったグラス、空っぽの金庫、そして内側から下ろされた五キロの鉄の閂。
犯人は一体どうやって部屋に入り、どうやって毒を飲ませ、そしてどうやってこの絶対の密室から脱出したというのか。
不可解極まる謎の重圧が、重い空気となって現場にのしかかっていた。




