第11話:検死結果~死因は即効性の青酸性神経毒~
午前十時。
侯爵邸の一階、豪奢なクリスタルシャンデリアが下がる大応接室。
緋色の天鵞絨が張られた長椅子に腰掛け、検死調書に万年筆を走らせていた老人が、眼鏡を外して深いため息をついた。
警察医のハインツ医師。六十配を過ぎた帝都屈指の法医学の権威であり、これまで数千に及ぶ変死体を解剖してきた冷徹なベテランである。
「暫定の検死結果だ、ギルバート警部。……実に情け容赦のない、冷酷な毒だな」
「死因は?」
ギルバートが手帳を構え、焦燥を押し殺した声で尋ねる。
「青酸カリウム――シアン化カリウムの急性中毒による心肺停止だ。経口摂取だな。口腔粘膜、食道、そして胃壁の毛細血管が激しく充血し、特有の鮮紅色の死斑が背部から臀部にかけて明瞭に出現している」
「青酸カリ……服毒してから死ぬまでの時間はどれくらいだ?」
「純度が極めて高い。胃粘膜の腐食の深さと、心臓内の暗赤色流動血の性状から見て、致死量をはるかに超える粉末が一瞬で体内に吸収されている。ブランデーを一口含んでから、喉の激しい灼熱感と呼吸困難に襲われ、全身痙攣を起こして心肺停止に至るまで――短くて六十秒、長く見積もっても九十秒以内だ。即効性だな。被害者は机の上の呼び鈴に手を伸ばす暇すらなく、のたうち回って絶命した」
ハインツ医師は冷徹な指先で、調書に記された幾何学的な体温降下グラフをトントンと叩いた。
「そして……お前さんが一番知りたがっている、正確な死亡推定時刻だ」
「割り出せたのか、先生」
「ああ。複数の法医学的所見が、極めて狭い時間帯へと見事に収束している。まず第一に、死体の直腸温の低下度だ。昨夜の部屋の室温推移と、侯爵の肥満体型の比熱を考慮した冷却曲線。第二に、角膜の混濁度と下顎の死後硬直の進展具合。そして第三に――これが決定打だが、胃の内容物の消化状態だ」
ハインツ医師は小さなシャーレを取り出し、ピンセットの先を掲げた。
「侯爵の胃の中から、未消化のトリュフショコラの残渣が発見された。最高級カカオと金箔が使われた特注品だ。老執事セバスチャンの証言によれば、昨夜午後九時三十分ちょうど、侯爵の私室のドアベルが鳴り、執事がドアの小窓からショコラを一皿差し入れたことが確認されている。侯爵はそのショコラを一口食べ、胃酸で分解される間もなく、毒入りのブランデーを煽った。……ショコラの摂取から胃壁での初期消化にかかる時間は、医学的に見てわずか十五分から二十分程度だ」
「ということは……!」
「断定していい。バローニ侯爵の死亡時刻は――【昨夜の午後九時四十五分から、十時零零分の間】。このわずか十五分間の枠の中に、百パーセント収まっている」
ハインツ医師は断言し、さらに手元の布包みを開いた。
中から現れたのは、現場の絨毯の上、侯爵の右手のすぐ脇に転がっていた純金製の腕時計だった。
風防のサファイアガラスには激しいクモの巣状のヒビが入り、金無垢のケースの角が大きく凹んでいる。
そして――文字盤の針は、【午後九時五十二分】を指したまま、完全に動きを止めていた。
「侯爵が毒の苦悶に襲われ、のたうち回った際、執務机の大理石の角に手首を猛烈な勢いで叩きつけた痕跡がある。手首の打撲痕と、時計の打撃痕が完全に一致した。強い衝撃によって脱進機の天府のホゾが折れ、その瞬間に針が停止している。……法医学的推定時刻と、物理的に破損した時計の時刻が、寸分の狂いもなく符号したわけだ」
ギルバートは手帳の余白に、太い筆圧で【午後九時四十五分~十時零零分】と書き殴り、それを力任せに二重の丸で囲んだ。
午後九時四十五分から十時零零分。
この十五分間こそが、犯行の絶対的なタイムウィンドウだ。
この時間に、西棟奥の密室に侵入し、侯爵に毒を飲ませることができた者――あるいは、アリバイのない者が真犯人である。
「それで警部、誰か目星はついてるのか? あの強欲侯爵が死んで、一番得をする奴は」
「考えるまでもねえよ」
ギルバートは忌々しそうに吐き捨てた。
「親父の莫大な領地と銀行口座、そして侯爵の地位をそっくりそのまま手に入れる……一人息子のジュリアン様だ」
バローニ侯爵と息子のジュリアンの確執は、社交界でも誰もが知る公然の秘密だった。
厳格で猜疑心の強い父親は、息子の放蕩を許さず、財産へのアクセスを完全に遮断し、政略結婚を強制して息子を支配下に置こうとしていた。ジュリアンが父親を憎悪し、殺害して遺産を奪う動機は、屋敷の天井に届くほど積み上がっている。
「問題は、どうやってあの密室を作り、どうやって逃げたかだ。……おい、ジュリアン様は今どこにいる?」
「こちらにいらっしゃいます、警部」
応接室の重い樫の扉が、音もなく開かれた。
現れた青年の姿に、ギルバートはわずかに眉を跳ね上げた。
ジュリアン・フォン・バローニ。
仕立ての良い黒の最高級モーニングコートに身を包み、黒絹のネクタイを締めた喪服姿。
その顔は青白く、目元は泣き明かしたかのように赤く腫れ上がっていた。手には白い麻のハンカチを固く握りしめ、肩を小刻みに震わせながら、悲痛な表情で立っている。
父親を無残に殺害された、痛ましい悲劇の跡取り息子。その立ち居振る舞いは、一分の隙もない完璧なリアリズムを帯びていた。
「……警察の方、父のことでお呼びでしょうか」
掠れた、痛ましげな声。
ギルバートは椅子から立ち上がり、鋭い眼光を青年の全身に浴びせながら歩み寄った。
「ジュリアン様。お悲しみのところ恐縮ですが、警察の職務として、いくつか伺わねばならないことがあります。……昨夜の午後九時四十五分から十時零零分の間、あなたは何をどこでしておられましたかな?」
ギルバートの直球の追及。
並の容疑者であれば、動揺して視線を彷徨わせるか、声を上ずらせるところだ。
だが、ジュリアンはハンカチで目元をそっと押さえ、深く息を吸い込むと、淀みない静かな口調で答えた。
「……昨夜のその時刻でしたら、私は東棟二階の自室、私の書斎におりました」
「お一人で?」
「いいえ」
ジュリアンは顔を上げ、ギルバートの目を正面から真っ直ぐに見つめ返した。
その瞳の奥深く、誰も気づかない網膜の最深部に、冷酷無比な嘲笑の火花を宿しながら。
「友人のカイル子爵令息が、チェスの相手をしに訪ねてきてくださっていたのです。私たちはその時刻……書斎の大きな振り子時計を見ながら、二人で静かに盤面を囲んでおりました」




