第12話:ジュリアンの鉄壁のアリバイ~「その時、私は友人といた」~
「カイル子爵令息……だと?」
ギルバート警部は眉を跳ね上げ、無精髭の顎をガリガリと引っ掻いた。
カイル・フォン・ヴェルナー。帝都でも名を知られた名門子爵家の次男坊だ。社交界では温厚で誠実な好青年として知られ、嘘や偽証をするような性質の男ではない。
「ええ。昨夜、父との関係に思い悩み、塞ぎ込んでいた私の気分を紛らわせようと、カイルがわざわざ訪ねてきてくれたのです」
ジュリアンは痛ましげに視線を伏せ、ハンカチを握りしめた。
「カイルなら、今も一階の小サロンで私の身を案じて待機してくれています。どうか……彼から直接お聞きください」
十分後。
大応接室に呼び出されたカイル子爵令息は、仕立ての良い紺碧のフロックコートを端正に着こなした、金髪碧眼の育ちの良さそうな青年だった。その顔には親友ジュリアンを気遣う深い憂慮と、警察に向けられた隠しようのない警戒心が浮かんでいた。
「ヴェルナー卿。お引き止めして恐縮だが、昨夜のあなたの行動について、少々確認させていただきたい」
ギルバートは手帳を開き、太い鉛筆の先を走らせる構えを取った。
「ええ、何でもお話しします、警部。ジュリアンは心優しい男です。父親である侯爵閣下が厳格すぎるあまり、日頃から悩まされてはいましたが……彼が閣下に危害を加えるなど、天地が引っくり返ってもあり得ません!」
「卿の友情の篤さはよく分かった。だが我々警察は感情ではなく、厳然たる事実とタイムラインしか信用せんのだ。……昨夜、卿がこの屋敷を訪れた正確な時刻と、その後の行動を分刻みで教えていただきたい」
カイルは姿勢を正し、昨夜の記憶を鮮明に手繰り寄せるように語り始めた。
「昨夜、私がこの屋敷に馬車で到着したのは、午後九時三十分ちょうどでした。正門の警備日誌にも私の名前と到着時刻が記録されているはずです」
「ああ、それは門番の証言と照合済みだ。九時三十分の通過だな」
「玄関で執事のセバスチャンに出迎えられ、ジュリアンの待つ東棟二階の書斎へと案内されました。書斎の扉を開けて部屋に入ったのが――ちょうど【午後九時三十五分】です」
「なぜ三十五分だと正確に分かる?」
「ジュリアンの書斎の壁に、大きなマホガニー製の振り子時計が据え付けられているからです。重厚な鐘が鳴る立派な時計ですよ。私が部屋に入った瞬間、ジュリアンが『やあカイル、待っていたよ。ちょうど九時三十五分だね』と、その大時計を見上げながら私を迎え入れてくれたのです」
ギルバートは手帳に【21:35 東棟書斎入室(大時計確認)】と書き留めた。
「それから、二人は何をしていた?」
「ジュリアンが『気晴らしにチェスを一局どうだ』と誘ってくれたので、部屋の丸テーブルを挟んでチェスを始めました。彼が白番、私が黒番です」
「その間、ジュリアン様は部屋から出なかったのか? 例えば手洗いに立つとか、酒を取りに行くとか」
「一歩も部屋から出ていません!」
カイルは強い口調で断言した。
「断言できます。昨夜の対局は、序盤からクイーンズ・ギャンビットの鋭い変化になり、私は一手一手、激しく長考を強いられていました。特に……午後九時四十五分を回ったあたり、私のナイトが中央に進出した局面です。ジュリアンがクイーンを引いて待ちの姿勢を取ったため、私は次の指し手をどうするべきか、十分以上も盤面を凝視して頭を抱えていたのです。その間、ジュリアンはずっと私の目の前――盤を挟んだ正面の肘掛け椅子に座り、優雅に紅茶を啜りながら、静かに私の長考を待っていました」
「目の前を離れることは、絶対に無かったと?」
「絶対にありません! 彼は時折、大時計のチクタクという規則正しい音を聞きながら、『カイル、君の長考癖は学生時代から変わらないな』と穏やかに微笑みかけてくれたほどです。彼が席を立ったのは、対局が終わった後だけです」
ギルバートの眉間に、深い溝が刻まれる。
午後九時四十五分から十時零零分。
ハインツ医師が法医学的に割り出し、現場の破損した腕時計が指し示していた、バローニ侯爵の【絶対の死亡推定時刻】。
その十五分間、ジュリアンは東棟の書斎で、カイル子爵令息と一対一でチェス盤を挟み、真正面から見つめ合っていたというのだ。
「対局が終わったのは、何時だ?」
「【午後十時十分】です」
カイルは淀みなく答えた。
「私のキングがジュリアンのルークに追い詰められ、詰み筋に入ったため、私が投了しました。『完敗だよジュリアン。時計を見ると、もう十時十分だ。夜も遅いし、そろそろお暇するよ』と言って、私は席を立ちました。大時計の長針がちょうど十時十分の目盛りを指しているのを、二人ではっきりと確認したのです」
「その後は?」
「ジュリアンに書斎の扉まで見送られ、私は一階へと降りました。玄関で待機していた老執事のセバスチャンに外套を着せてもらい、屋敷を出たのが十時十五分。正門を出たのが十時二十分です」
ギルバートは背後に控えていた老執事セバスチャンを鋭く振り返った。
「おい、セバスチャン。カイル卿の証言に間違いはないか?」
「相違ございません、警部様」
セバスチャンは深々と頭を下げた。
「昨夜午後九時十五分、私が若殿の書斎へ夜食の紅茶と焼き菓子をお運びした際、若殿はお一人で読書をされておいででした。その際、暖炉に無煙炭が赤々と燃え盛っており、お部屋が非常に暖まっておりましたので、私が『よくお部屋が暖まっておりますね』とお声をかけたのを覚えております。その後、九時三十分にカイル様がご到着され、私が書斎へご案内いたしました。そして十時十五分、カイル様がお帰りになるのを私が玄関でお見送りしております」
「十時十五分以降、ジュリアン様はどうされていた?」
「カイル様をお見送りした後、十時二十五分頃に私が茶器を下げるため再び書斎へ伺いました。若殿はお疲れの様子で、机の上で洋書をめくっておられました。その際、暖炉の火はすでに落とされており、大時計は十時二十五分を指しておりました」
ギルバートは手帳を握りしめたまま、言葉を失った。
タイムラインが、あまりにも綺麗に繋がりすぎている。
・21:00~21:30:ジュリアン、書斎で読書(21:15に執事が目撃)。
・21:35:友人カイルが書斎に入室(大時計で確認)。
・21:35~22:10:二人は書斎で対面してチェス(ジュリアンは一歩も部屋から出ず)。
・22:10:チェス終了、投了(大時計で確認)。
・22:15:カイル退室、執事が見送り。
・22:25:執事が書斎でジュリアンを確認。
被害者であるバローニ侯爵が殺害された西棟の密室と、ジュリアンがいた東棟の書斎は、広大な中庭を挟んで直線距離にして百メートル以上離れている。
大階段を降り、渡り廊下を抜け、西棟の防犯扉を通過して奥の部屋へ往復するだけでも、最低十分から十五分はかかる。
だがジュリアンには、犯行時刻の全域において、「カイル子爵令息」という確固たる第三者の目撃証人が、寸分の隙もなく張り付いていたのだ。
「……完璧すぎる」
ギルバートは唸り声を漏らした。
物理的に、ジュリアンが父親を殺害することは絶対に不可能だった。




