第13話:書斎の大時計~正確に時を告げる偽装された振り子~
「くそっ……! 納得がいかねえな」
ギルバート警部は荒々しくトレンチコートの襟をかき乱し、大応接室の絨毯を踏み鳴らした。
「おい鑑識! その『大時計』を見に行くぞ! 東棟二階の書斎だ!」
ジュリアンとカイルのアリバイの全基盤となっているのは、東棟書斎の振り子式大時計だ。
もしもその時計の針が意図的に狂わされていたとしたら?
もしもジュリアンが時計の針を手で進めたり遅らせたりして、カイルに誤った時刻を信じ込ませていたのだとしたら――?
その可能性を潰さない限り、叩き上げの刑事としての勘が納得を拒んでいた。
「ご案内いたします、警部様。私の部屋に何か疑わしい点があるとおっしゃるなら、どうぞ気の済むまでお調べください」
ジュリアンは悲痛な面持ちのまま、深々と礼をして先導した。その従順で協力的な態度が、ギルバートの苛立ちを一層募らせる。
東棟二階のジュリアンの私室兼書斎。
扉を開けると、そこは上品なマホガニーの調度品と、革装丁の学術書が整然と並ぶ、落ち着いた空間だった。
中央の丸テーブルには、昨夜の対局の余韻を残す象牙と黒檀のチェスセット。
そして――部屋の西側の壁際、大理石の暖炉のすぐ左隣に、その巨躯をそびえ立たせていた。
高さ二メートル二十センチ。
帝都随一の家具職人が彫り上げた、重厚なウォールナット材のケース。
面取りされた分厚いクリスタルガラスの奥で、黄金色に輝く真鍮の振り子が、厳かに、規則正しく揺れている。
――コチ、コチ、コチ、コチ。
静まり返った部屋の中に、金属の爪が時を刻む硬質な反響音が、一分の淀みもなく響き渡っていた。
「鑑識、調べろ! この時計の現在時刻と、内部の機構だ!」
ギルバートの鋭い命令に、鑑識班員が二人、携帯用の工具箱を抱えて大時計の前に駆け寄った。
鑑識員はまず、胸ポケットから帝国警察標準の認定クロノメーター(高精度懐中時計)を取り出し、大時計の白磁の文字盤と見比べた。
「現在時刻の照合を行います。……帝都中央天文台の有線報時信号と同期したクロノメーターは、午前十一時零三分四十二秒。……そして、この大時計が指している時刻は――」
鑑識員が息を呑んだ。
「午前十一時零三分四十二秒……! 完全に一致しています! 一秒の狂いもありません!」
「なに……!?」
ギルバートは目を剥き、時計の文字盤へと顔を近づけた。
細工された金無垢の長針と短針、そして細く繊細な秒針が、警察の最高精度クロノメーターと寸分のズレもなく同期して動いている。
「針を指で強引に回した痕跡は? ガラス扉の鍵をこじ開けた跡はないか!?」
「調べます」
鑑識員がルーペとピンセットを取り出し、ガラス扉の真鍮枠や文字盤の表面を舐めるように検分した。
「指紋はジュリアン様と執事のものだけです。文字盤の中心軸にも、針の根元にも、無理なトルクをかけて曲げたり回したりした金属疲労の痕跡はありません。極めて自然に、滑らかに回転しています」
「内部だ! 中の機械を見ろ! 歯車に何か噛ませて動きを遅らせたんじゃないのか!?」
鑑識員がケース側面のメンテナンス扉を開け、手鏡と真鍮の懐中電灯で、歯車列と脱進機を照らし出した。
何枚もの真鍮製歯車が、青焼きされた鋼のカナと美しく噛み合っている。
「歯車の歯欠け、バリ、異物の混入……一切ありません。ガンギ車とアンカーの脱進角も完璧に調整されています。脱進機には最高級の潤滑油が薄く差されており、摩擦抵抗の異常も検出されません。……機械工学的に見て、完璧な状態です」
「振り子は!? 振り子の長さを変えて周期を狂わせる手口があるだろうが!」
ギルバートの問いに、鑑識員は真鍮製のノギスを取り出し、振り子の長さを精密に計測した。
「振り子ロッドの全長、ちょうど一メートル。下部の調整ナットのネジ山にも、最近回されたような新しい擦れ跡はありません。振り子の往復周期は正確に二点零秒。物理法則通りの、教科書のように正しい等時性を示しています」
鑑識員は立ち上がり、困惑したようにギルバートを見上げた。
「警部……この大時計は、帝都でも滅多にお目にかかれないほどの最高級の精密機械です。昨日も、昨夜も、そして今この瞬間も……何一つ狂うことなく、帝都標準時を正確に刻み続けていたと結論付けるしかありません」
「くそっ……!」
ギルバートは歯噛みした。
時計に狂いはない。
昨夜、カイルが見た大時計の「九時三十五分」も「十時十分」も、完全に正しい時刻だったということになる。
ならば――その時間に目の前でジュリアンとチェスを指していたカイルのアリバイ証言は、盤石にして崩しようのない真実ということになってしまう。
ギルバートは踵を返し、大時計のすぐ隣にある暖炉へと歩み寄った。
暖炉の中には、灰色の燃え殻が静かに積もり、完全に冷え切っていた。
「昨夜、この暖炉を激しく焚いたと言っていたな」
「はい」
ジュリアンが神妙な面持ちで答えた。
「昨夜は酷く冷え込みましたので……無煙炭をくべて暖を取っておりました。ですが十時半前には火を落としました。それが何か事件と関係があるのでしょうか……?」
ギルバートは火搔き棒を取り、暖炉の灰をザクザクと掻き回した。
灰の中から立ち上る、微かな冷たい灰の匂い。
灰の奥底に、わずかに白っぽく変色した微細なシリカの粒子が混ざっていたが――灰の成分検査の知識など持たないギルバートには、それが単なる無煙炭の燃えかす以外の何物にも見えなかった。
シオンが昨夜ジュリアンに手渡した、熱膨張を消滅させるための『特殊消火粉末』。
それは役目を終え、冷えた灰の中に完全に偽装されていた。
――ジュリアンは、俯いたまま、コートのポケットの中で握りしめた拳を震わせていた。
歓喜。
圧倒的な勝利感。
噴き出しそうになる狂笑を、奥歯をギリギリと噛み締めることで必死に抑え込んでいた。
「(勝った……! 僕の完全勝利だ!)」
あの下町の時計屋、シオンの仕掛けは本物の奇跡だった。
暖炉の熱で振り子を伸ばし、時間を五分間遅らせる。
そして火が消えれば、金属は元の長さに収縮し、時間の歪みは夜気の中へ完全に消え去る。
機械に一切の傷を残さず、物理法則そのものを共犯者にして証拠を隠滅する神業。
警察の鑑識ごときがどれほどルーペで睨みつけようと、解けるはずがないのだ。
「(父は死に、巨額の負債証書は僕の暖炉で灰になった。そして僕には、完璧な鉄壁のアリバイがある……!)」
「チッ……! 忌々しいぜ」
ギルバートは火搔き棒を投げ出し、トレンチコートのポケットから安煙草を取り出して口にくわえた。苛立ちに任せてマッチを擦ろうとした瞬間――。
「警部! 室内での火気使用は厳禁です! 鑑識作業の邪魔をしないでください!」
鑑識員に本気で怒鳴られ、ギルバートは「へいへい、悪かったよ」とバツが悪そうにマッチを吹き消した。
完全なる手詰まり。
西棟の密室毒殺は、外部からの侵入も脱出も不可能な絶対密室。
そして最有力容疑者である長男ジュリアンには、第三者の目撃と正確無比な大時計によって裏付けられた、鉄壁の不在証明。
捜査は、完全に暗礁に乗り上げたかに思われた。
――だが、その時だった。
屋敷の遥か階下、外の砂利道から、耳を劈くような鋭いブレーキ音と、重厚な馬車の車輪音が響き渡った。
二頭立ての大型馬車が、物凄い速度でエントランス前に急停車した気配。
続いて、規則正しく冷徹な、鉄鋲を打ち込んだ軍靴の足音が、館の大理石の大階段を真っ直ぐに上がってくる。
その足音は、迷いなく、容赦なく、まるで運命の秒針のように冷たく響いていた。




