第84話:毒煙の罠と、決死の脱出劇
「ゴホッ、ゲホッ……! 息が……!」
噴き出した紫色の煙は、瞬く間に映写室の狭い空間を満たしていった。
エルネスタが喉をかき抱き、激しく咳き込みながら床に膝をついた。肺腑を直接灼かれるような甘ったるい刺激臭。吸い込むごとに視界がぐにゃりと歪み、手足の先から急速に感覚が抜け落ちていく。
「エルネスタ、息を止めて! 口と鼻を袖で覆うんだ!」
シオンは脱ぎ捨ててあった手品用の白ハンカチを携帯水筒の水で素早く濡らすと、エルネスタの口元へと強く押し当てた。
外側からの閂による完全な閉じ込め。
現場の証拠を隠滅し、二人をこの密室の中で窒息死、あるいは催眠毒による急性中毒で抹殺するための、影の演出家が仕掛けた周到極まりない罠だった。
「扉の閂は外側から掛けられている……! 外に見張りを置いていたはずの警察官はどうしたの……!?」
「おそらく、背後から襲われて気絶させられたんでしょう。……敵は、私たちがここへ辿り着くことすら完全に予測していたんだ!」
シオンは鉄扉に肩から体当たりを食らわせたが、防音用の分厚い鉄扉はビクとも動かない。鍵穴にピックを差し込もうにも、施錠されているのは外側の物理的な鉄閂なのだ。内側からピッキングで解除できる仕組みではない。
バールで頑丈な蝶番を叩き落とそうにも、工具箱のノミや金槌では数十分かかる。だが、残された時間はあと一分もない。部屋の酸素は急速に希薄になり、紫の毒煙が天井から床へと降り注いでいる。
エルネスタのアイスブルーの瞳が虚ろになり、焦点が定まらなくなった。彼女の細い体が、力なくシオンの胸元へと倒れ込んでくる。
「シオン……ごめんなさい……私の油断で、あなたを巻き込んで……」
「謝るな! あなたを死なせるものか!」
シオンの脳内で、無数の歯車が超高回転で火花を散らした。
酸素の残量はあと数息。
手元にある道具は――工具箱の真鍮ワイヤー、極太のニッパー、そして目の前に据え付けられた、アーク放電灯の巨大な蓄電池。
大容量の鉛蓄電池。端子間電圧は直流二百ボルト。内部抵抗は極めて低く、直結短絡させた瞬間の瞬間放電電流は千アンペアを優に超える。
千アンペアの直流短絡。それは、爆発的なジュール熱と超高温のプラズマアークを生み出す。
「エルネスタ、床に伏せて目を閉じ、耳を塞いでいろ! 絶対に光を見るな!」
シオンは叫びながら、放電灯の高圧配線をニッパーで一気に両断した。
被覆を剥いた親指ほどの太さの銅線の束に、真鍮ワイヤーを幾重にも巻きつけ、先端にアーク放電用の高純度炭素電極を硬く縛り付ける。
物理学者たちが金属溶接に用いる、アーク放電溶断の原理!
短絡によって生じる摂氏三千度を超える超高熱のプラズマを、鉄扉と枠の隙間――外側の閂金具が通っている一点へと直接叩き込むのだ!
シオンは濡れタオルで自らの両目を覆い、剥き出しの電極を鉄扉の隙間へと力任せに突き立てた。
「吹き飛べぇぇぇっ!!」
バチィィィィィィィン――――ッ!!!!
暗闇を灼き尽くすような、太陽の爆発にも似た純白の閃光が室内に炸裂した。
ジュウウゥゥッという凄まじい融解音と共に、三千度を超えるプラズマの熱線が、鉄扉の閂金具を一瞬にしてドロドロの白熱した溶鉄へと変えていく。
火花が豪雨のように降り注ぎ、シオンの上着の袖がチリチリと焦げ付くが、シオンは歯を食いしばり、猛烈な高熱に耐えて電極をさらに深く押し込み続けた。
ドガァンッ!!
溶け落ちた閂金具が外側の床に落ち、火花が弾けた瞬間、シオンは渾身の力で扉を蹴り飛ばした。
ギィィィヤァァァンッ!!
溶断された鉄扉が外側へと勢いよく跳ね返り、冷たく澄んだ朝の新鮮な空気が、濛々たる紫煙を吹き散らしながら廊下から雪崩れ込んできた。
「ハァッ……ハァッ……! ゴホッ!」
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、シオンは激しく咳き込みながらすぐさま振り返った。
床に倒れ伏し、ぐったりと意識を失いかけているエルネスタ。
シオンは一切の躊躇なく駆け寄り、彼女の膝裏と背中に腕を滑り込ませると、軽々と横抱き――お姫様抱っこの体勢で抱き上げた。
「エルネスタ! しっかりしろ、エルネスタ!」
「ん……シ、シオン……?」
腕の中で、エルネスタが弱々しく睫毛を震わせ、目を開けた。
自分の体がシオンの逞しい腕の中にすっぽりと収まり、彼の首筋にしっかりと抱きついている体勢に気付き、蒼白だった彼女の頬が一瞬にして真っ赤に染まる。
だがシオンは彼女の動揺や照れなど気にする余裕もなく、廊下に倒れていた見張りの警察官の頸動脈に触れて生存を確認すると、エルネスタを抱いたまま大講堂の螺旋階段を一気に駆け下りた。
「走るなと言いたいところですが……緊急事態です。しっかり掴まっていてください!」
「は、はい……っ!」
エルネスタはシオンの首にぎゅっと両腕を回し、彼の胸元に顔を深く埋めた。
シオンの胸の奥で、激しく鐘を打つような心臓の拍動が、ダイレクトに彼女の耳へと伝わってくる。
それは恐怖によるものでは決してない。自分を助け出すために、全身の筋肉と命を限界まで燃やして走る男の、何よりも温かく力強い真実の鼓動だった。
大講堂の通用口を飛び出すと、待機していたギルバート警部が銃を構えたまま血相を変えて駆け寄ってきた。
「お、お嬢! シオン君! 一体何があったんでえ!?」
「映写室に毒煙の罠が仕掛けられていた! だが……証拠はすべてこの頭の中に叩き込んだ!」
シオンはエルネスタを警察馬車のシートへと優しく降ろし、鋭い藍色の瞳で帝都の空を睨み据えた。
「行くぞ、ギルバート警部! 警察本部へ戻り、カミーユ・デュプレの身柄を今すぐ拘束する!」




