第82話:薔薇のステンドグラスと青い光の死角
大講堂の屋根裏へと続く、錆びついた鉄の螺旋階段。
一段昇るごとに埃が舞い上がり、足元の鉄板がギシギシと悲鳴を上げる。
地上二十メートルの高さに張り巡らされた、幅わずか六十センチの点検通路――キャットウォーク。
手すりの下を覗き込めば、千席の観客席が遥か足元にミニチュアのように縮んで見え、高所特有の冷たい気流が足首を撫でていく。
「きゃっ……」
エルネスタが思わず足を止め、手すりを強く握りしめた。
軍学校で過酷な訓練を積んできた彼女とはいえ、底の抜けたような吹き抜けの高さには、本能的な恐怖が滲み出ていた。
「大丈夫ですか、エルネスタ。私の腰のベルトに掴まってください」
「だ、大丈夫ですわ……! これくらい、平気です……!」
強がりながらも、その白い指先は小刻みに震えている。シオンは苦笑し、彼女の歩調に合わせて慎重にキャットウォークを進んだ。
やがて二人は、大講堂の天井の中心――あの巨大な『薔薇のステンドグラス』の真裏へと辿り着いた。
間近で見るステンドグラスは圧巻だった。
分厚い鉛のフレームに支えられた、無数の色ガラス。中央に配置された直径二メートルのコバルトブルーのガラスは、酸化コバルトを極限まで均一に練り込んだ特注品で、まるで巨大な青い瞳のように、真下のホールを見下ろしていた。
シオンは計算尺と分度器を取り出し、ステンドグラスの角度と、真下の演壇の直線距離を測り始めた。
「……昨夜二十一時、満月の南中高度はおよそ五十五度。月光はステンドグラスのこの青いガラスを斜め四十五度の角度で透過し、演壇の中心――カミーユが立っていた位置へと、ピンポイントで照射される計算になる」
「昨夜の写真の通りですわね。演壇の床板には、この薔薇の模様と、鉄格子の影が鮮明に落ちていました」
「ええ。だが、カミーユの身体には影が落ちていなかった。波長四百五十ナノメートルの青い光は、物質の表面に当たれば必ずその輪郭の影を落とします。……なぜなら、カミーユの像は『光』そのものだったからです。光の上に別の光を重ねても、影は生まれない。物質としての身体が存在しないことの、動かぬ証明だ」
シオンがステンドグラスのフレームの隙間を覗き込んだ、その時だった。
ピキッ……ガタッ!
エルネスタが踏みしめていた足元の鉄板が、経年劣化の錆によって突如として折れ曲がった。
「あっ……!?」
バランスを崩したエルネスタの体が、地上二十メートルの虚空へと傾ぎ落ちる。
手すりから手が離れ、浮遊感が彼女を襲った、まさにその刹那――。
ガシィッ!!
強烈な力で、エルネスタの細い腰が抱き寄せられた。
「動くな、エルネスタ!!」
シオンの低く鋭い叫び声。
シオンは左腕をキャットウォークの太い支柱に巻きつけ、右腕一本でエルネスタの体を抱え上げ、自らの胸元へと力強く引き戻した。
ドサリと、安全な足場の上へ倒れ込む二人。
エルネスタは完全にシオンの腕の中に閉じ込められ、彼の逞しい胸板に顔を埋めるような形になっていた。
ドクン、ドクン、ドクン――ッ!!
シオンの胸の奥で、早鐘を打つ心臓の激しい鼓動が、エルネスタの耳に直接伝わってくる。
そしてシオンの首筋からは、真鍮と石鹸の清潔な匂い、そして彼自身の熱い体温が、波のように押し寄せていた。生まれて初めて男性の胸に飛び込み、その力強い腕の中に抱きしめられた動揺と、言い知れぬ甘い痺れが、エルネスタの全身を駆け巡る。
「……シ、シオン殿……」
「怪我はありませんか? 足首は……痛みますか?」
シオンの顔が、わずか数センチの至近距離にあった。
普段の冷静な仮面をかなぐり捨て、本気で自分を心配し、蒼白になっている藍色の瞳。
その瞳に見つめられた瞬間、エルネスタは落下の恐怖など一瞬で吹き飛び、胸の奥底が焼け付くような熱情で満たされるのを感じた。
「だ、大丈夫です……。怪我は、ありません……。……あの、シオン殿」
「はい」
「その……抱きしめる力が、少し……強すぎますわ……」
蚊の鳴くような、恥じらいに満ちた囁き。
シオンはハッと我に返り、自分がエルネスタの腰を骨がきしむほど強く抱きしめていたことに気付いて、慌てて腕の力を緩めた。
「す、すまない! 無我夢中で……!」
「い、いいえ! 助けていただいたのですから、お礼を言わなければならないのは私ですわ! ……あ、ありがとう、シオン」
ふいに敬称を外して呼ばれた名前に、シオンの心臓がドキンと跳ねた。
赤面して視線を泳がせる二人。狭い屋根裏の足場に、甘く息苦しい沈黙が流れる。
だが、その時シオンの指先が、支柱の奥の配線ダクトに触れた。
埃まみれの鉄管の隙間から、一本の異様なケーブルが引き出されていた。
直径三センチ。外部を黒い耐熱ゴムで覆われ、中心部にはダイヤモンドのように澄んだ石英の束がぎっしりと詰まっている。
「これは……!」
シオンは息を呑み、ケーブルを手繰り寄せた。
「クラリスの帳簿にあった【最高純度の石英光ファイバー】だ……! このケーブルが、ステンドグラスの裏から、三階の映写室へとまっすぐに繋がっている!」
死角の謎は、完全に解かれた。
二人は顔を見合わせ、力強く頷き合った。
いよいよ、影の演出家が仕掛けた魔導装置の心臓部――三階旧映写室への突入の時が訪れていた。




