第81話:大講堂の現地調査、巨大な空間の死角
午前九時三十分。
帝都中央美術館に隣接する『帝都大講堂』は、昨夜の狂乱が嘘のように、冷え切った静寂に包まれていた。
ギルバート警部の手引きにより、シオンとエルネスタは関係者用の通用口から無人のホールへと足を踏み入れた。
ドーム状の巨大なアーチ天井。すり鉢状に広がる千席の赤ビロードの観客席。
ウィーンの伝統的なコンサートホールを模した長方形の『靴箱型』構造は、音響を均一に拡散させる一方で、中央の演壇へと視線を集める圧倒的な求心力を持っていた。壁面には防音と装飾を兼ねた石膏のレリーフが隙間なく施され、床には厚手の吸音絨毯が敷き詰められている。
ホールの最深部には、昨夜カミーユが立ち、千人の熱狂を浴びた木製の演壇が、ぽつんとスポットライトの残骸を浴びて佇んでいた。
「昨夜の公演が終わった後、ハルトマンの息のかかった憲兵どもが形ばかりの現場検証をしていきやしたがね。連中は『不審物なし、カミーユのアリバイは盤石』と結論づけて、早々に引き上げちまいましたよ」
ギルバート警部が吐き捨てるように言った。
シオンは演壇へと歩み寄った。靴音が広大な空間にカン、カンと高く反響する。
演壇の広さは畳四畳ほど。四方には遮るものが何もなく、観客席のどこから見下ろしても死角は存在しない。
「シオン殿。これほど開かれた空間で、本当に人間一人をまるごと幻影とすり替えることなど可能なのでしょうか?」
エルネスタが客席を見渡しながら、不思議そうに尋ねた。
「ええ。人間は『広い場所で、全方向から見えているもの』に対して、無意識に絶対の信頼を置いてしまう。舞台の周囲を歩き回り、シルクハットから鳩を取り出す動作を見せられるだけで、脳は『そこに実体がある』と自動的に補正してしまうのです。それこそが、奇術師が用いる【心理的盲点】の神髄ですよ」
シオンは演壇の上に膝をつき、ルーペを取り出して床板の継ぎ目を丹念に調べ始めた。
指先で埃を撫でる。
チクリ、と指先に微かな結晶の感触があった。
「ありましたよ、エルネスタ」
「何がですの?」
「微細な噴霧ノズルです。床板の継ぎ目、わずかコンマ五ミリの隙間に、超音波ピエゾ素子を備えた極小ノズルが等間隔に埋め込まれている」
シオンがピンセットで床の隙間から掻き出したのは、乾いて固まった白い粉末だった。
「これは……塩ですの?」
「純水に微量のミネラル塩を添加した特殊溶液の乾燥痕です。超音波で気化させる際、水滴の粒子径を光の波長――五百ナノメートル前後に均一化するための添加剤だ。粒子が大きすぎれば光を白く乱反射(ミー散乱)して霧に見えてしまい、小さすぎれば透過してしまう。五百ナノメートルの均一な微粒子だからこそ、目に見えない透明な膜となり、投射された光だけを前方へ鮮鋭に反射する『不可視のスクリーン』を形成できたんだ」
「水滴が……スクリーンの役割を!」
エルネスタが息を呑んだ。床に膝をつき、粉末を指先でそっと触れながらシオンを見上げる。
わずかな粉末の結晶と、床板の隙間のノズルから、これほど複雑な光学機構の全貌を一瞬で見抜いてしまうシオンの驚異的な頭脳。エルネスタのアイスブルーの瞳に、畏敬と、そして誇らしげな熱い光が灯る。
そこへギルバート警部が首を傾げながら口を挟んだ。
「だがよ、シオン君。もし演壇にいたのが光の幻影だったとしたら、声はどうやって出してたんだ? あいつ、千人の前で三十分間も澱みなく喋り続けて、客席と掛け合いまでしてたんやぞ?」
「それこそが、昨夜私が受話器で看破した【コンマ零五秒の音声遅延】の正体です」
シオンは立ち上がり、講堂の天井を指差した。
「演壇のマイクはダミーでした。カミーユは演壇ではなく、別の場所で喋っていた。その音声を有線ケーブルでステージ袖のスピーカーへと送り、口元の動きに合わせて再生していたのです。……気温十五度における音速の遅れから計算すれば、カミーユが実際にいた場所は、演壇から十七メートル離れた場所でなければならない」
「十七メートル……」
エルネスタが視線を巡らせた。
演壇の真上。千席の客席を見下ろすようにして、ホールの三階壁面にぽっかりと口を開けている、重厚な鉄の扉。
「三階の……旧映写室!」
「ええ。あそこが、この巨大な幻影劇の心臓部です」
シオンの瞳が、さらにその上――ホールの最頂部に嵌め込まれた、巨大な円形ステンドグラスへと向けられた。
直径五メートルを超える、鮮麗な薔薇のステンドグラス。
朝の柔らかな光を浴びて、コバルトブルーと深紅のガラスが、息を呑むような幾何学模様を描き出していた。
「……行きましょう、エルネスタ。天井の点検通路を通って、あのステンドグラスと映写室を調べます。真実の最後の鍵は、あの光の通り道に眠っている」
「ええ、参りましょう! どんな高い足場であろうと、あなたと一緒なら恐れはしませんわ」
エルネスタは力強く頷き、サーベルの鞘を軽く叩いてみせた。
ギルバート警部が下で見張りを固める中、シオンとエルネスタは、埃の舞う冷たい屋根裏の鉄骨へと、迷いなく歩みを進めていった。




