第80話:館長が遺した「寄付者名簿」の謎
「旧皇室の……秘密文書?」
エルネスタが息を呑んだ。居間の空気が一瞬にして凍りつき、トビーもフォークを止めて目を丸くしている。
クラリスが煙管の灰を真鍮の灰皿へと落とし、静かに頷いた。
「ええ。ベルク館長が持ち込んできたのは、その文書の『複写の一部』よ。……これをごらんなさい」
クラリスの手から差し出されたのは、煤けた羊皮紙のコピーだった。
見出しには、厳かな筆致でこう記されていた。
――『帝都大時計塔クロノス修復資金・貴族院特別寄付者名簿』。
十年前、帝都大時計塔が火災で焼失する直前、大規模な改修工事のために集められた巨額の寄付金の記録だった。そこには、帝国貴族院の重鎮や、軍の上層部たちの名がずらりと並んでいる。
だが、シオンはその紙面の異様な点に即座に気付いた。
「名簿の最後のページ……ここだけが、乱暴に破り取られている」
「そうよ。ベルク館長は言っていたわ。『この最後のページに記された名前こそが、十年前の火災の真犯人であり、先帝暗殺の資金源となった軍需企業の正体だ』ってね」
「先帝暗殺……!」
エルネスタが顔色を変えた。
十年前に起きた大時計塔炎上事件。それは単なる文化遺産の焼失事故として処理されていたが、その同じ夜、先代の皇帝が謎の急死を遂げていた。公式発表では病死とされていたが、帝国上層部の間では常に暗殺の噂が絶えなかったのだ。現体制の正統性を根底から揺るがす、帝国の暗部中の暗部。
「ベルク館長は元宮廷修復師でした。十年前、時計塔が燃え盛る混乱の最中に現場へ駆け込み、修復中だった国宝『黄昏の幻影画』を避難させる名目で持ち出した。……そして、その絵画のキャンバスの裏地に、この危険すぎる名簿の本物を隠匿していたのよ」
クラリスは細い指先で、羊皮紙の端を指し示した。
「羊皮紙の紙質は、百年前の王室御用達製紙工房のもの。インクは鉄ガルインクで、経年による酸化変色がはっきりと出ているわ。偽造の余地はない正真正銘の本物よ。……ベルクはこれを使って、十年間、貴族院の重鎮たちから巨額の金を強請り取ってきたの」
「……なるほど。すべての歯車が噛み合いましたね」
シオンは冷徹な声で呟いた。
「ベルク館長は、名簿の秘密を盾に貴族院の高官たちを脅迫し、巨額の口止め料を巻き上げていた。だが、最近になって貴族院内部で権力闘争が激化し、身の危険を感じた館長は、絵画を自作自演で盗まれたことにして、十億円の盗難保険金を詐取し、海外へ高飛びしようとしたんだ」
「自作自演の狂言盗難……! では、あの地下密室のトラップも、館長自身が用意したものだったのですか!?」
エルネスタが問うと、シオンは静かに首を横に振った。
「準備したのは館長自身でしょう。重錘が落下してダミーの脅迫状を床に突き立て、自分は軽傷を負って『怪盗に襲われた被害者』を装うはずだった。……だが、影の演出家はその狂言計画を事前に知っていた。そして、館長の仕掛けた時計の歯車をわずか一分早め、重錘の先端を鋭利な鋼鉄杭にすり替えたんだ」
「そんな……! それじゃあベルク館長は、自分が仕掛けた狂言の罠によって、自らの心臓を貫かれたというの……!?」
「ええ。犯人は密室に入っていない。被害者自身に密室を作らせ、被害者自身の手で死の引き金を引かせた。……悪魔的なハッキング殺人です」
工房の中に、肌を刺すような冷たい沈黙が落ちた。
人間の強欲と悪意を計算し尽くし、完璧な悲喜劇として演出する男――フェリクス・アルノーの底知れぬ狂気。
クラリスが煙管を置き、真剣な眼差しでシオンを見つめた。
「フェリクス・アルノー……あいつの目はね、人間の命を数字としか見ていないわ。昔、闇社会で噂を聞いたことがあるけれど、自分の立てた脚本のためなら、親兄弟すら平然とチェスの駒にする怪物よ。シオン、あなたはその怪物と、たった一人で戦う気なの?」
「一人ではありませんわ」
エルネスタが毅然として割り込んだ。
「私がいます。帝国法務執行局が、そしてヴァレンタインの名が、シオン殿を支えます!」
「……ふふ、頼もしいことね、お嬢さん」
クラリスは微笑み、手帳を閉じた。
「ハルトマン卿がこの件に異様な執念を燃やしている理由も、これで分かったわね。ハルトマンの背後にいる貴族院の黒幕こそが、その名簿に名前を連ねている張本人よ。あいつらは、絵画の裏にある名簿を回収し、真相を知るあなたたちを共犯として処刑して、すべてを闇に葬る気だわ」
「ええ。そして、その査問会議は今日の正午……残された時間はあと四時間しかありません」
シオンは作業台から立ち上がり、スーツの上着を羽織った。
「大講堂へ潜入します。カミーユが使った光学投影の物理的痕跡を押さえ、さらにハルトマンが回収したはずの本物の絵画の行方を突き止める」
「私も参りますわ、シオン殿!」
エルネスタがサーベルのベルトを締め直し、凛とした瞳でシオンの隣に並び立った。
クラリスは二人の姿を見て、ふっと妖艶に微笑んだ。
「いい度胸ね、お嬢さん。……シオンを死なせたら、承知しないわよ?」
「言われずとも、私の命に代えても守り抜きますわ!」
二人は工房を飛び出し、秋の朝光が照らす帝都の街へと駆け出した。




