第79話:黒猫クラリスの乱入と絶対零度の嫉妬
「あらあら? 朝から新婚夫婦の睦まじい朝食にお邪魔しちゃったかしら?」
猫のように音もなく裏口から滑り込んできたのは、深いスリットの入った紫の絹ドレスに、豪奢な黒狐の襟巻きを纏った美女だった。
クラリス・ノワール。二十五歳。
帝都裏歓楽街の頂点に君臨する高級クラブ『月光亭』の支配人であり、かつて帝都の警察を散々翻弄した伝説の元怪盗【黒猫】。
クラリスは細い煙管を指先で回しながら、艶然とした微笑みを浮かべてシオンへと歩み寄った。
「クラリス……勝手に裏口から入るなと言っているだろう」
「いいじゃない、昔馴染みの仲なんだから。それよりシオン、私というものがありながら、こんな初々しいお嬢さんを工房に囲い込むなんて……ずいぶんと隅に置けない男になったものね?」
クラリスは流れるような身のこなしでシオンの背後に回り込むと、その豊かな胸元をシオンの背中に押し当てるようにして、白い指先を彼の首元へと絡め、耳元に甘い吐息を吹きかけた。
その瞬間だった。
ピキ、ピキピキ……ッ!!
クロノス堂の居間の室温が、文字通り物理的に氷点下へと急降下した。
シオンが戦慄して正面を見やると――そこには、手に持っていた銀のティースプーンを、無言の凄まじい握力で『くの字』にへし曲げたエルネスタが座っていた。
エルネスタのアイスブルーの瞳からは、絶対零度の吹雪のような冷気が立ち上り、周囲の空気を凍てつかせている。髪の毛の一本一本まで怒りで逆立たんばかりの形相。
「……シオン殿」
地獄の底から響いてくるような、低く、冷徹な声。
「公務の途上、および捜査の重要参考人管理の観点からお尋ねします。……その、露出度の極めて高い、見るからにいかがわしい女性と、あなたはどのような『肉体的不法契約』を結んでいらっしゃいますの?」
「肉体的不法契約って何ですか!? 誤解です、エルネスタ! 彼女はただの裏社会の情報屋で――」
「あら、ただの情報屋だなんて冷たいわね、シオン?」
クラリスは楽しそうに目を細め、さらにシオンの肩に頬を摺り寄せた。その豊かな曲線美がシオンの腕に密着する。
「昔、あなたが警察に追われた時、私のベッドの下に一晩中匿ってあげた仲じゃない? あの時のあなたの切迫した息遣いと、私のシーツを握りしめていた指先……今でも鮮明に覚えているわよ?」
「ベッドの下に潜り込んだのは追手をやり過ごすためで、他意は一切ない! 頼むから余計な誇張をするな!」
「ギシィッ……メキョッ……!!」
エルネスタの手の中で、へし曲がった銀スプーンが、今度は螺旋状にねじり切られ、哀れにも金属疲労で真っ二つにへし折れた。
「帝国風俗秩序維持法第四条、および公序良俗反逆罪……! シオン殿、あなたという人は、これほど不潔で破廉恥極まりない爛れた関係を……っ!」
「話を聞いてください! クラリス、お前も面白がって話を盛るな!」
「あははは! ごめんなさいね、お嬢さん。あまりにも純情で可愛い反応をするから、ついからかい甲斐があって」
クラリスは満足そうに喉を鳴らしてシオンから離れると、テーブルの空いた椅子に優雅に腰掛け、ドレスのスリットからすらりと伸びた白い脚を組んだ。
エルネスタはギラギラとした視線でクラリスを睨みつけ、シオンの前に立ちはだかるように身を乗り出した。公爵令嬢としての矜持と、生まれて初めて自覚した激しい独占欲が、彼女の華奢な全身から炎のように噴き出している。
「それで、何の用ですの? 怪盗の残党が、帝国の法務執行官の前にのこのこと現れるとは、逮捕されたいのかしら」
「おやおや、怖いこと。でもね、お嬢さん。今夜あなたたちが最高査問法廷で首を刎ねられないための、特大のプレゼントを持ってきてあげたのよ」
クラリスの表情から悪戯っぽい笑みが消え、鋭い情報屋の顔へと切り替わった。
クラリスは胸元の谷間から、一冊の薄い黒革の手帳を取り出し、テーブルの上へと滑らせた。
「昨夜、帝都の闇市でカミーユ・デュプレの資金ルートを洗わせたわ。……あの子、一ヶ月前に闇ギルドを通じて、ある特殊な光学資材を大量に買い集めていたのよ」
「光学資材……?」
シオンが身を乗り出す。
「ええ。軍用の潜望鏡や遠距離通信に使われる、最高純度の『石英光ファイバーケーブル』。長さにして百メートル以上。通常のガラス管とは比較にならない透過率を誇り、光の減衰係数は千分の一以下。さらに、高圧のアーク放電灯に使う特注のキセノン電極……。すべて、大講堂の旧映写室へ運び込まれていたわ」
シオンの瞳が青く燃え上がった。
石英ファイバー。光を減衰させることなく遠距離へ伝送するための導波管。
三階の映写室から演壇のミストスクリーンへと光を運んだ、まさにその物理的な動脈の存在が、裏ルートの帳簿によって裏付けられたのだ。
「間違いない……。カミーユが講堂に投影装置を設置していた決定的な物証だ」
「それだけじゃないわよ」
クラリスは煙管の紫煙を細く吐き出し、声を潜めた。
「殺されたベルク館長……あいつ、死ぬ三日前に私の店に来たのよ。そして、ある物の買い手を極秘に探してくれと頼んできたわ。……十年前の大時計塔炎上事件で失われたはずの、旧皇室の秘密文書をね」




