第78話:クロノス堂の朝、エプロンと寝癖
チク、タク、チク、タク――。
朝の澄んだ光が、クロノス堂の工房の石畳を柔らかく照らし出していた。
作業台に向かい、シオンは昨夜持ち帰った大講堂の見取り図と、天井の配管図に細い羽ペンを走らせていた。昨夜の雨はからりと上がり、秋の爽やかな風が、工房の真鍮の換気窓から心地よい冷気を運んでくる。
トビーがまだ二階の奥で高い寝息を立てている中、ギシッ、ギシッと階段を踏みしめる小さな足音が降りてきた。
シオンがペンを止め、振り返ったその瞬間――。
息を呑むような、そして同時に腹の底から笑いが込み上げてくるような光景が目に飛び込んできた。
階段から現れたのは、白銀の豊かな長髪を盛大に爆発させたエルネスタだった。
右側の髪はまるで雀の巣のように逆立ち、左側の髪は寝相の悪さを物語るようにペタリと頬に張り付いている。眠たげに半分閉じたアイスブルーの瞳を指先で擦りながら、口元には小さなあくびを噛み殺した名残があった。
しかもその姿は――シオンが工房で使っている厚手の青い木綿エプロンを、あろうことか前後逆さまに身につけ、背中の紐をお腹の前で固結びにしようと悪戦苦闘していた。
「……ふあぁ。おはようございます、シオン殿。……今日は、私が朝食を作ると……言いましたでしょう……?」
寝ぼけ眼のエルネスタは、トスッとスリッパの音を立てて台所へ向かおうとした。
シオンは耐えきれずに吹き出しそうになり、慌てて口元を手で覆ったが、喉の奥から「くっ……」と微かな笑い声が漏れてしまった。
「な、何がおかしいのですか? 人の顔を見て笑うなど、失礼ではありませんこと?」
「い、いえ、失礼しました。ただ……エルネスタ執行官、鏡をごらんになった方がよろしいかと」
シオンが作業台の横にある真鍮の姿見を指差した。
エルネスタはいぶかしげに眉をひそめながら、鏡の前へと歩み寄った。
そして――。
鏡の中に映る、頭から爆発したような銀髪の毛玉と、エプロンを前後逆に着けて胸元を紐で縛り上げた自らの奇怪な姿を目撃した。
「ひゃ、ひゃあああああああああっ!?」
耳を劈くような悲鳴が工房に響き渡った。
エルネスタは両手で顔を覆い、首筋から耳の先まで一瞬にして真っ赤に沸騰した。
「な、何ですのこの頭はーっ!? それにエプロンが、どうして後ろ前に……っ!?」
「藁ベッドのスプリングが跳ねたせいでしょうね。エプロンは首を通す輪が背中に回っていますよ」
「み、見ないでくださらない! 今すぐ忘れて! 国家機密として記憶から抹消してくださいましーっ!!」
エルネスタは脱兎の勢いで階段を駆け上がり、二階の部屋のドアをバタンと叩き閉めた。
入れ違いに、物音で目を覚ましたトビーが目を擦りながら下りてきた。
「親方……今、お姉ちゃんの凄い悲鳴が聞こえたけど、泥棒でも入ったの?」
「いや、白薔薇が派手に乱れ咲いただけだよ」
シオンは楽しげに肩をすくめ、台所へと向かった。
三十分後。
髪を完璧に梳かし上げ、軍服の襟元を寸分の狂いもなく正したエルネスタが、氷のように澄まし切った表情で居間へと下りてきた。だが、その耳たぶだけは、まだほんのりと桜色に染まっている。
「……お待たせしました、シオン殿。身支度に少々手間取りましたわ」
「いえ、ちょうど朝食が焼き上がったところです」
シオンが丸テーブルに並べたのは、厚切りのブリオッシュをたっぷりの卵液とミルクに浸し、弱火でじっくりと黄金色に焼き上げた特製のフレンチトーストだった。仕上げに軽く粉砂糖が振られ、上質のメープルシロップと甘酸っぱいベリーのジャムが添えられている。
「わあーっ! 親方、今日のご飯、貴族のホテルみたいだ!」
トビーが歓声を上げ、エルネスタも思わず目を奪われたようにゴクリと喉を鳴らした。
「……あの、これは?」
「昨夜の雨で冷えたでしょう。甘い糖分と温かいパンは、疲れた頭脳と神経を修復してくれます。どうぞ召し上がってください」
エルネスタは恐る恐るフォークを入れ、一口口へと運んだ。
サクッとした表面の香ばしさの奥から、プリンのように滑らかでとろけるような甘みと、バターの豊かな香りが口いっぱいに広がる。
「……っ! 美味しい……! 外側はカリッとしているのに、中が信じられないくらい柔らかくて……」
「牛乳と卵の比率を三対二にし、隠し味にほんの少しのシナモンとラム酒を加えています。余熱で中まで均一に熱を通すのがコツです」
「あなた……本当に前職は時計屋なんですの? 帝国宮廷の料理長でもここまでのお皿は出せませんわよ」
エルネスタは感動に打ち震えながら、二口目、三口目とフォークを進めた。さっきまでの恥じらいはどこへやら、幸せそうに頬を緩めるその横顔は、名門の重圧を背負った冷徹な執行官ではなく、どこにでもいる可憐な少女そのものだった。
シオンはその姿を穏やかな目で見つめながら、淹れたてのアッサムティーを彼女のカップへと注いだ。
「さて、腹ごしらえが済んだら、大講堂の調査です。……敵の光学トリックの物理的な証拠を押さえに行かなければなりません」
「ええ、望むところですわ。ハルトマンの鼻を明かしてやりましょう」
エルネスタが力強く頷いた、その時だった。
カラン、と工房の裏口のドアベルが鳴り、甘く妖艶な香水の香りが部屋の空気を一変させた。




