第77話:夜の雨、背中を預け合う誓い
美術館の外へ出ると、帝都ルミナリアは冷たい秋の雨に煙っていた。
満月は分厚い雨雲の彼方へと覆い隠され、芸術特区の白大理石の舗道には、街灯の黄色い光が滲んだ水たまりとなって波紋を広げていた。
シオンとエルネスタ、そして外で待機していたトビーの三人は、追跡の目を避けるように下町の暗い路地裏を縫い、真夜中の『クロノス堂』へと帰り着いた。
「ただいま……っ、うう、寒かったぁ!」
トビーが工房へ転がり込み、薪ストーブの前に張り付いて手をこすり合わせた。
シオンは手早くドアの閂を厳重に下ろし、濡れたスーツの上着を脱ぎ捨てて作業台の横のフックへ掛けた。
エルネスタもまた、冷たい雨に打たれて白銀の髪を濡らし、唇をわずかに紫色にして震えていた。
「エルネスタ、まず身体を温めてください。風邪をひいては明日の法廷で戦えません」
シオンは棚から厚手のウールのブランケットを取り出し、エルネスタの華奢な肩へと優しく掛けた。
そして真鍮のポットでお湯を沸かし、濃いめのアッサム茶葉に生姜の絞り汁とシナモン、そしてたっぷりの蜂蜜を加えた特製のスパイスティーを二つのマグカップに注ぎ入れた。
「どうぞ。身体の芯から温まりますよ」
「……ありがとう、シオン殿」
エルネスタは両手で大切そうにマグカップを包み込み、湯気を吸い込んで一口啜った。
ピリリとした生姜の刺激と、蜂蜜の濃厚な甘みが、冷え切った身体にじんわりと染み渡っていく。エルネスタのアイスブルーの瞳に、ふわりと安堵の光が戻った。
「美味しい……。あなたの淹れる紅茶は、どうしてこんなにも優しい味がするのかしら」
「安物の茶葉をごまかすための知恵ですよ。下町の職人は、寒い冬を越すためにスパイスの配合を覚えるものです」
シオンは苦笑しながら、作業台の上に美術館の見取り図、巨大振り子時計のスケッチ、そして大講堂の構造図を並べた。
オイルランプの灯りに照らされた三枚の図面。
ストーブの薪がパチパチとはぜる音と、大小百の時計が刻むチクタクという規則正しい鼓動だけが、真夜中の静寂を埋めていた。
「シオン殿。事件の全容について、改めて整理させてください」
ブランケットにくるまったエルネスタが、真剣な眼差しで身を乗り出してきた。
「第一の謎――展示ケースからの絵画消失。これは、偏光フィルターの九十度回転とナトリウムランプの波長による【光学的透明化】でしたわね」
「ええ。絵画は物理的に盗まれてなどいない。ケースの中に不可視の状態で隠されているだけです」
「そして第二の謎――地下修復庫でのベルク館長殺害。これは、巨大振り子時計の水銀重錘に仕掛けられた【時限式自動刺殺トラップ】……。犯人は現場に立ち入ることなく、二十一時零一分に館長を処刑した」
「その通りです。そして最大の障壁が――第三の謎、カミーユ・デュプレの【千人の不在証明】だ」
シオンは羽ペンを手に取り、大講堂の三階映写室と演壇の間に、一本の直線を引いた。
「カミーユは演壇にいなかった。映写室のアーク放電灯とシュミット凹面鏡から、石英光ファイバーを通じて、演壇の微細ミストに等身大の立体像を投影していた。……だが、エルネスタ。これだけでは、裁判所を納得させることはできません」
「どういうことですの? ステンドグラスの影の矛盾も、音声のコンマ零五秒の遅延もあるのに……」
「ハルトマンの言う通り、貴族院の裁判官たちは物理の素人です。『光の彫刻を見たのだ』と口で説明したところで、『千人の貴族や警察官が見たという証言の方が重い』と一蹴されるのが関の山だ。……彼らを屈服させるには、明日の法廷の壇上で、彼らの目の前で【光学迷彩の再現実験】を成功させるしかない」
「法廷で……実験を!?」
エルネスタが目を見張った。
神聖にして厳粛な帝都最高裁判所の大法廷に、実験装置を持ち込んで種明かしを行う。前代未聞の暴挙であり、失敗すれば即座に法廷侮辱罪で投獄される危険な賭けだった。
「できるのですか、シオン殿? 明日の正午までに、あの巨大な装置を法廷で再現することなど……」
「トビーの作った水滴レンズと、私の工房にある光学部品、そして大講堂に残されている光ファイバーの端材を使えば、小型の実験模型を組み上げることは可能です。……問題は、私のような前歴のある下町の時計屋に、法廷で発言の機会が与えられるかどうかだ」
シオンの言葉に、エルネスタは力強く首を横に振った。
彼女はブランケットを払い落とし、凛とした姿勢で立ち上がると、胸の法務執行官の銀バッジを指先で弾いた。
「発言権なら、私が作ります! 法務執行局の最高権限を発動し、私自身があなたの『主任弁護人』として証言台に立ちますわ!」
「エルネスタ……それでは、あなたの立場が……」
「私の立場など、あなたの命と真実に比べれば羽毛よりも軽いものです!」
エルネスタは一歩踏み出し、シオンの作業着の袖を両手でギュッと握りしめた。
見上げるアイスブルーの瞳は、涙で微かに潤みながらも、ダイヤモンドのような硬質な光を宿していた。
「信じてください、シオン。……あなたが一人で時間を偽装し、孤独に戦ってきた過去を、私は知りません。ですが、今のあなたの時間は……私が見守っています。世界中があなたを犯罪者と呼ぼうと、私だけは絶対に、あなたの刻む正義を信じます!」
胸を衝くような、真っ直ぐすぎる魂の叫び。
シオンは息を呑み、作業台の上で自らの右手を重ねた。
冷たかったエルネスタの手が、紅茶と情熱の熱を帯びて、トクトクと力強い脈拍を刻んでいる。
「……分かりました、エルネスタ」
シオンの口元に、いつもの皮肉屋ではない、心の底からの静かで穏やかな笑みが浮かんだ。
「時計師の誇りにかけて、あなたに恥はかかせません。……明日の正午、帝都の法廷を舞台にして、影の演出家が仕掛けたすべての幻影を、二人で完全に解体しましょう」
雨の音に包まれた工房で、二人の手が固く結ばれた。
チク、タク、チク、タク――。
百の時計たちが刻む規則正しい金属の心音が、新たな反撃の夜明けを告げるように、力強く鳴り響いていた。




