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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第76話:千人の証言という名の絶対障壁

「銃を下げなさい、ハルトマン卿!!」


 エルネスタが雷鳴のような声で割って入り、シオンの前に自らの体を立ちはだかせた。

 抜刀されたサーベルの切っ先が、ハルトマンの拳銃の銃口とわずか数センチの距離で火花を散らすように対峙する。


「根拠なき嫌疑で捜査顧問に銃を向けることは、帝国刑法違反です! シオン殿は今夜、ずっと私と共に警備本部にいました! 彼が地下へ降りて館長を刺す時間など、物理的に存在しません!」


「共犯を使えば済む話だ、エルネスタ君!」


 ハルトマンは冷笑を崩さず、銃を下ろそうとはしなかった。


「この時計屋が事前に罠を仕掛け、遠隔操作で館長を殺害したと見なすのが最も合理的だ。……何より、世論がそれを求めている。国宝が盗まれ、高名な館長が殺されたのだ。警察が無能を晒すわけにはいかん。貴族院の体面を守るためにも、誰か一人、分かりやすい悪党を断頭台に送らねばならんのだよ」


「職権乱用も甚だしい! 自らの保身のために無実の者を陥れ、真実をねじ曲げてトカゲの尻尾切りを行うなど、帝国法曹の恥晒しですわ!」


「黙れ、小娘! 貴族院の意向に逆らう者がどうなるか、父親に教わらなかったのか! 帝国を動かしているのは法ではない、我々貴族の血統と秩序なのだ!」


 ハルトマンが怒鳴りつけた、その瞬間だった。

 シオンがエルネスタの肩にそっと手を置き、彼女を優しく背後へ引き戻した。

 シオンの顔には、恐怖も動揺もなかった。ただ、研ぎ澄まされた刃物のような冷徹な知性だけが、その藍色の瞳に宿っていた。


「ハルトマン卿。あなたが私を犯人に仕立て上げたい理由は、よく理解できました。ですが、あなたのその拙劣な脚本は、最初の前提から完全に崩壊していますよ」


「何だと……?」


「あなたは先ほど、『カミーユには千人の不在証明があるから、彼を犯人にすることはできない』とおっしゃいましたね。……ですが、その【千人の不在証明】こそが、最大の異常であり、作られた欺瞞なのです」


 シオンは胸ポケットから、先ほど大講堂から届いたばかりの現場写真を一枚取り出し、ハルトマンの目の前に突きつけた。

 大講堂のステージ。千人の観客の前で、カミーユが両手を広げて手品を披露している写真。

 背後には、満月の光を浴びた薔薇のステンドグラスが、青い月光をステージの上に落としている。


「この写真を見てごらんなさい。演壇の床板には、ステンドグラスの青い光と、鉄の格子の影が鮮明に焼き付いている。大気中の微細な埃を透過した月光が、床に影を落としているのが分かりますね。……だが、カミーユの白いシャツの上には、格子の影が一切落ちていない」


「……なっ!?」


 ハルトマンが息を呑んだ。

 シオンは写真を指先で叩いた。


「波長四百五十ナノメートルの青い光は、物質の表面に当たれば必ずその輪郭の影を落とします。影が落ちていないということは、そこに『実体が存在しなかった』動かぬ物理的証拠です。カミーユは演壇に立っていなかった。三階の映写室から自らの姿を、微細ミストのスクリーンへと投影していたのです。……千人の観客は嘘をついていない。千人全員が、精巧な光学ホログラムという同じ幻を見せられていただけです」


「ば、馬鹿な……! 千人の人間を同時に騙すことなど……!」


「人間は、見たいものしか見ない生き物ですからね。スポットライトを浴び、声が響き、薔薇が鳩に変わる手品を見せられれば、誰もがそこに本物がいると錯覚する。……千人の証言という巨大な壁は、光と水滴の連立方程式によって、すでに粉々に砕けています」


 シオンの圧倒的な論理の前に、ハルトマンは言葉を失い、銃口を微かに震わせた。

 背後に控える憲兵たちも互いに視線を交わし、動揺を隠せない。

 だが、ハルトマンの瞳の奥に宿る暗い光は、消え去ってはいなかった。


「……ふ、ふふん。詭弁だな、下町の詐欺師め。幻影だのホログラムだの、裁判所がそんなオカルトじみた物理講釈を真に受けると思うか? 明日の正午、帝都最高裁判所で貴族院による『最高査問会議』が開かれる。……そこで貴様のその戯言が通用するか、見ものだな」


 ハルトマンは忌々しそうに拳銃をホルスターへ戻すと、憲兵たちに命じた。


「現場を封鎖しろ! 遺体を検死局へ搬送! ……エルネスタ君、貴女の処分についても、明日の査問会議で正式に決定される。覚悟しておくことだな」


 ハルトマン率いる部隊が、重々しい足音と共に地下回廊を去っていった。

 冷え切った修復庫に残された三人。

 血だまりの生臭い匂いと、針の止まった巨大時計の威圧感の中、エルネスタがシオンの服の袖をギュッと掴んだ。


「シオン殿……明日の正午、査問法廷が開かれてしまえば、ハルトマンは貴族院の権力を総動員して、あなたを有罪に追い込むはずです。残された時間は、今夜一晩しかありませんわ……!」


「ええ、分かっています」


 シオンは壊れた鉄扉の向こう、雨の降り始めた帝都の夜空を見つめた。


「一度、クロノス堂へ戻りましょう。……千人の錯覚を法廷で完全に立証するための『決定打』を揃えなければならない」

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