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クロックワーク・アリバイ 〜裏社会の天才時計技師、自分が作った「鉄壁の不在証明」を法廷で解体する〜  作者: 六井求真


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第75話:巨大時計の足元で流された血

立ち込める埃が薄れ、カンテラの橙色の光が部屋の奥を照らし出した瞬間、エルネスタの喉から短く息が漏れた。

 絵画修復庫の中央。

 高さ三メートルを超える巨大な天文振り子時計。その真鍮の文字盤の足元に、一人の男が無残に倒れていた。

 エルネスト・ベルク館長だった。

 ベルクは仰向けに倒れ、その胸の真ん中――心臓の急所を、太さ三センチ、長さ三十センチを超える鋭利な鋼鉄の杭が、深々と貫通していた。

 毛皮付きの豪奢な外套は黒々とした鮮血で染まり、周囲の大理石の床には、直径二メートルを超える巨大な血だまりが広がっている。

 見開かれた虚ろな瞳は天井を睨みつけ、口元からは一筋の血が垂れていた。すでに呼吸はなく、脈拍も完全に停止していた。即死。

 その硬直した右手には、彼が生前に異常な執着を見せていた金の懐中時計が、握り締められたまま転がっていた。


「……そんな。ベルク館長……」


 エルネスタが戦慄し、思わず口元を手で覆った。

 名門武門の令嬢として死体を見慣れているはずの彼女ですら、血の気の引くような残酷な光景だった。鼻腔を焼くような鉄錆の匂いと、絵画の修復溶剤のツンとした刺激臭が混ざり合い、胃腑を激しく揺さぶる。

 シオンは静かにベルクの遺体の傍らにしゃがみ込み、周囲の床を注意深く観察した。


「足跡はありません。埃の積もった床には、ベルク館長自身の靴跡が、入り口から時計の前へと一直線に続いているだけだ」


「外部からの侵入者の痕跡は……?」


「ゼロです。扉の閂は確かに内側から下りていた。窓もなく、換気ダクトにも人が通った形跡はない。……完全な密室の中で、館長は心臓を貫かれた」


 シオンの視線が、遺体の胸に突き刺さった鋼鉄の杭から、真上へと移動した。

 巨大天文振り子時計。

 その振り子の下部に吊り下げられていたはずの、あの重量十五キロの『水銀重錘』が――最下点まで落下し、床からわずか十センチの空中で揺れていた。

 十五キロの質量を持つ鋼鉄と水銀の塊。高い位置から滑車を経由して自由落下すれば、その先端の杭にかかる破壊力は数千ジュールに達する。人間の胸骨など、薄紙のように容易く貫通してしまう物理エネルギーだ。

 しかも内部の水銀が落下の瞬間に先端へと一気に偏重するため、打撃の破壊係数は通常の固体金属の数倍にも跳ね上がる。

 そして、その重錘の底面には――鋭利な杭がねじ込まれていたネジ穴と、飛び散った生々しい血痕が付着していた。


「……振り子の重錘か。十五キロの鉛と水銀の塊が、三メートルの高さから位置エネルギーを伴って落下し、その先端に仕込まれた杭が、館長の胸を撃ち抜いたんだ」


「時計が……人を刺したというのですか!?」


 エルネスタが信じられない面持ちで見上げる。

 シオンはキズミを目に嵌め、時計の文字盤を凝視した。

 時針と分針は――『二十一時零一分』の位置で、ピタリと停止していた。

 上の展示室で絵画が消滅した、まさに一分後。


「見てください、エルネスタ。壁の自記湿度計の記録紙を」


 シオンが指差した先。

 時計と連動して自動で回転するドラム式の湿度計。その円筒に巻かれた記録紙の上で、インクの針が『二十一時零一分』の目盛りの箇所で、垂直に跳ね上がっていた。

 通常は四十パーセント前後で安定していたグラフが、突如として八十パーセント近くまで跳ね上がっている。


「湿度が急激に上昇している……? なぜですの?」


「重錘が最下点に激突した衝撃で、空調連動のソレノイドバルブが強制開放され、加湿蒸気が一気に噴き出したためです。……物理的な犯行時刻は、二十一時零一分で確定だ」


 シオンは立ち上がり、巨大時計の脱進機をルーペで覗き込んだ。

 昨日、微かな異音を感じたアンクルの噛み合わせ。

 やはり――ガンギ車の歯の一つが、極細の精密ヤスリによって、わずかコンマ二ミリだけ削り取られていた。

 削り取られたばかりの極微小な真鍮粉が、歯車の軸受けのオイルの中にキラキラと光っていた。


「アンクルが削られている……。影の演出家は、この時計の落下時刻を、意図的に一分早めていたんだ」


「カチャリ」


 その時、壊れた鉄扉の向こうから、冷たい拍手の音と、革靴の足音が響いてきた。


「見事な現場検証だな、下町の時計屋」


 現れたのは、黒マントを翻した特捜監査官ハルトマン卿だった。

 背後には十数名の武装憲兵が銃を構えて整列している。ハルトマンの冷徹な灰色の瞳が、血だまりの中に倒れるベルク館長を一瞥し、それから口元に醜悪な嘲笑を浮かべた。


「上の展示室で国宝『黄昏の幻影画』が煙のように消え去り……そして地下の密室で、絵画の所有権を握るベルク館長が惨殺された。……そして容疑者である魔術師カミーユには、千人の観客が証言する完璧な不在証明がある」


 ハルトマンは軍用拳銃の銃口を、真っ直ぐにシオンの眉間へと向けた。


「これで決まりだな。カミーユが犯行を行えない以上、館長を殺し、絵画を盗み出したのは――この美術館の内部を熟知し、時計仕掛けの罠を操れる唯一の男。シオン・エルロード、貴様だ!」

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