第74話:地下からの悲鳴、開かずの扉
悲鳴は、地下の暗闇から階段を伝い、大理石の回廊へと響き渡っていた。
展示室の貴族たちが怯えて後ずさりする中、シオンとエルネスタは弾かれたように同時に駆け出していた。
「シオン殿、地下の修復庫ですわ!」
「ええ! あの巨大時計のある部屋だ!」
二人は石造りの螺旋階段を一段抜かしで駆け下りる。一段降りるごとに、冷たく湿った空気が濃くなり、カンテラの橙色の炎が風を孕んで激しく揺らめいた。
足音の反響が石壁を打ち鳴らし、冷たい地下の闇を切り裂いていく。エルネスタは軍服のサーベルの柄を左手でしっかりと押さえ、乱れる息を整えながらシオンの背中を追った。彼女の靴音は規則正しく、緊迫した状況下でも決して歩調を乱さない。
薄暗いカンテラの明かりに照らされた地下回廊。冷たく淀んだ空気の奥で、二十代半ばの女性修復助手が一階の踊り場に腰を抜かし、ガタガタと全身を震わせていた。青ざめた顔には涙の跡が光り、恐怖のあまり喉を引きつらせている。
「ど、どうしたの!? 何があったのです!」
エルネスタが助手の肩を抱き起こす。女性は青ざめた唇を震わせ、修復庫の重厚な鉄扉を指差した。
「か、館長が……! 上の停電の直前、館長は『上の騒ぎを確認してくる』と言って部屋を出られたはずなのに……さっき、部屋の中からズズズンという物凄い地響きがして……! 呼んでも、扉を叩いても、中から何の返事もないんです……!」
「何だと……?」
シオンは眉をひそめ、展示室に残ってきたはずの人物たちの顔を思い浮かべた。
そうだ――絵画が消滅した展示室で狂乱していたあのベルク館長。暗転とナトリウムランプ点灯の混乱の最中、いつの間にかシオンたちの背後から姿を消していたのだ。上の騒ぎを確認した直後、自らこの地下へと急いで戻ってきたのか?
シオンは修復庫の正面へと詰め寄った。
厚さ三十センチの防魔鋼鉄扉。
表面には魔導合金のプレートが鋲留めされ、外気との温度差による結露がじっとりと表面を覆っている。
真鍮の巨大なハンドルに手をかけ、体重をかけて回そうとするが――ガチリとも動かない。
「閂が……内側から下りている」
「そんな……! マスターキーはお持ちではないの!?」
エルネスタが助手に問うと、助手は泣きそうな顔で首を横に振った。
「マスターキーは館長が首から下げている一本だけです……! それに、この閂は内側にある油圧レバーを手動で倒さない限り、外から鍵を使っても絶対に開きません……! 館長がご自分で閂を下ろしたとしか思えません……!」
完全密室。
窓は一枚もなく、四方は百年前の頑丈な石積み。通気ダクトは直径十センチの真鍮パイプのみで、人間どころか子供の腕すら通らない。
シオンは扉の隙間に耳をぴったりと押し当てた。
静寂。
そして――微かに漂ってくる、鉄錆のような生々しい血の匂いと、独特の油煙の臭気。
「……血の匂いだ。中で誰かが倒れている」
「なんですって……!? 憲兵隊を呼んで扉を爆破させますか!?」
「待ってください! 防魔鋼鉄の扉を爆破すれば、爆風で中の証拠がすべて吹き飛びます。……蝶番だ。扉の蝶番の芯棒を抜く!」
シオンはグレーのスーツのジャケットを脱ぎ捨てて足元へ置くと、腰の工具ホルダーから真鍮製の重いハンマーと、鋼鉄の焼入れバールを引き抜いた。
蝶番の軸穴にバールの先端を正確に噛み合わせ、ハンマーを振り上げる。
「エルネスタ、破片が飛びます! 下がっていてください!」
「いいえ、私も手伝います! バールを押さえますわ!」
エルネスタは危険を顧みず、シオンの構えるバールの柄を両手で力強く支えた。
至近距離で交錯する二人の視線。エルネスタの瞳に宿る揺るぎない信頼が、シオンの腕に爆発的な集中力を与えた。
焼き入れ鋼の分子結合が最も脆くなる剪断応力の角度――シオンの時計師としての物理計算が、打撃点をミリ単位で割り出す。
手首のスナップを効かせ、体幹のバネを腕の振りへとダイレクトに伝える職人の神業。
ガギィィィンッ!!
火花が飛び散り、地下の暗闇に凄まじい金属の打撃音が木霊する。
一度、二度、三度――!
シオンの鍛え上げられた職人の腕が、寸分の狂いもなく蝶番のピンの頭を叩き潰していく。
打撃の反動がエルネスタの腕にも激しく伝わるが、彼女は歯を食いしばり、一歩も退かずにバールを支え続けた。
シオンの額から大粒の汗が流れ落ち、エルネスタの頬をかすめる。至近距離で見つめるシオンの横顔は、彫刻のように美しく、そして何者にも屈しない鋼の意志に満ちていた。エルネスタはその横顔に息を詰め、シオンの熱い体温を感じながら、バールを渾身の力で固定し続けた。
ギギギ……パキィィィンッ!!
四撃目。焼き入れ鋼の芯棒が、甲高い音を立てて上へと跳ね上がった。
同時に、下側の蝶番もシオンの鋭い一撃によって粉砕される。
「外れた! エルネスタ、引いてください!」
「はいっ!」
シオンとエルネスタが同時に肩を入れ、数百キロの重量を誇る鋼鉄扉を力任せに押し倒した。
ズズウウウウン――ッ!!
蝶番を失った扉が、修復庫の内側へと轟音を立てて倒れ込み、濛々とした白煙と埃が地下回廊へと噴き出した。
埃の奥から立ち込めてきたのは、耐え難いほどの濃密な血の臭気。
二人がカンテラを掲げて足を踏み入れたその部屋の中心で――息を呑む惨劇が、静かに二人を待ち受けていた。




