第73話:21時00分、暗転と絵画消失
ボオオオオオオン――――ッ!!
帝都ルミナリアの中央にそびえ立つ大時計塔の重厚な鐘が、夜二十一時を告げる第一撃を打ち鳴らした。
低く、腹の底を揺さぶるようなその轟音が、美術館の大理石の回廊を震わせた、まさにその瞬間だった。
パツンッ!!
乾いた破裂音と共に、特別展示室の天井を飾る豪奢な水晶シャンデリアの光が一斉に吹き飛んだ。
完全なる漆黒。
視覚を奪われた数百人の特別招待客たちから、耳を裂くような悲鳴が沸き起こった。
「きゃあああああっ!?」
「な、何だ!? 停電か!?」
「シャンデリアの配電盤が落ちたぞ! 誰か明かりをつけろ!」
「動くな! その場を動くな! 憲兵隊、銃を構えろ!」
給仕が落としたシャンパングラスが砕け散る甲高い音、絹のドレスを踏み躙りながら逃げ惑う貴婦人たちの足音、ハルトマン卿の怒号、そして兵士たちの軍靴が床を踏み鳴らす音が、暗闇の中で激しく乱反射する。
混乱と恐怖が渦巻く中、シオンは一切の躊躇なく、隣を走っていたエルネスタの細い手首を掴み、力強く自らの背後へと引き寄せていた。
「シオン殿……!?」
「離れないでください、エルネスタ! 闇雲に動けば群衆のパニックに巻き込まれます!」
闇の中で重なる二人の息遣い。シオンの手のひらから伝わる確かな温もりと力強さに、エルネスタは高鳴る胸を抑えながら、彼の背中にそっと身を寄せた。
シオンは視覚を捨て、耳と皮膚の感覚を極限まで研ぎ澄ませていた。風の流れ、真鍮の匂い、電気火花の微弱なオゾン臭。
暗転から、わずか十秒。
ジジジジ……パッ!!
天井の非常用バッテリーが作動し、展示ケースの真上に備えられたナトリウムランプが、異様な黄色い単色光を放ちながら再点灯した。
黄色い光が照らし出したのは――静まり返った円形ホールの中心。
そして。
そこに群がっていた警備兵や貴族たちの口から、言葉を失った絶望の呻きが漏れ出た。
「な……んだと……!?」
「消えた……!? 絵が、消えているぞーっ!!」
厚さ五センチの特注防弾防魔ガラスケース。
ドワーフ鋼のフレームには傷一つなく、表面のガラスにも割れ目や焼き切られた痕跡は微塵も存在しなかった。ベルク館長が首から下げているはずのマスターキーの鍵穴も、完全に施錠されたままだ。
だが――ケースの奥、豪奢な真鍮のイーゼルの上には、何一つ載っていなかった。
百億円の価値を持つ帝国国宝『黄昏の幻影画』が、数百人の観客と重武装の憲兵隊が取り囲むその目の前で――煙のように、完全に消滅していたのだ!
「ば、馬鹿な! あり得ん! 鍵は私の手元にあるんだぞ!?」
駆け寄ってきたベルク館長が、狂乱してガラスケースに抱きついた。丸眼鏡を歪ませ、ガラスの表面を両手でバンバンと叩く。
ハルトマン卿もまた、拳銃を構えたまま顔面を蒼白に染めて立ち尽くしていた。
「ケースを開けずに絵画を持ち出すなど……魔導の転移術でも使わねば不可能だ! 憲兵、館内のすべての出口を完全封鎖しろ! 誰一人として外に出すな!」
阿鼻叫喚のパニックが広がる中、シオンは静かに歩み寄り、ガラスケースの前に膝をついた。
右手の革手袋を外し、素手の指先をケースの前面ガラス、そして側面の真鍮フレームへと密着させる。
「シオン殿……何が分かりますか?」
エルネスタが緊張の面持ちで隣にしゃがみ込んだ。
「……ガラスの表面温度は室温と同じ十五度。熱線や魔導による融解の痕跡はありません。空気孔の気圧差もゼロ。そして何より――この微かな匂いです」
「匂い……?」
「オゾンと、ごく微量の真鍮の摩擦粉の匂いです。ケースの台座の内部で、小型のぜんまい仕掛けが動作した痕跡がある」
シオンは立ち上がり、ナトリウムランプの黄色い光芒を見上げた。
「絵画は、物理的に持ち出されたのではありません。……最初から、このケースの中に残されていますよ」
「えっ……!? しかし、中には何も見えませんわ!」
「人の目を欺いているだけです。偏光スリット板の角度が、電源喪失の瞬間に九十度回転した。それによってナトリウム光の波長が完全に遮断され、背後の黒いビロードと同化して『不可視化』している。……手品としては上出来ですが、物理の法則を誤魔化すことはできません」
光の振動面が揃った偏光は、直交するもう一枚の偏光板を重ねることで透過率が完全にゼロになる。いわゆる直交ニコルの物理原理だ。絵画の表面に偏光フィルムが張られていれば、照明の偏光軸を回すだけで、人の網膜には完全な透明として錯覚させることができるのだ。
シオンが淡々と告げた、その時だった。
ジリリリリリ――ッ!
展示室の壁に設置された警察無線の受信機から、大講堂に詰めているギルバート警部の興奮した絶叫が響き渡った。
『本部、応答しろ! こちら大講堂! 現在二十一時零二分! カミーユ・デュプレは今も千人の観客の前で演説を続けている! カミーユのアリバイは完全だ! 繰り返す、カミーユのアリバイは完全だ!!』
大講堂の千人の目撃者。
そして、目の前で消え去った国宝絵画。
ハルトマン卿が憎悪に満ちた目でシオンを睨みつけた。
「時計屋……! 貴様の言う通りケースの中に残っているというなら、今すぐそれを取り出して見せろ! できねば、貴様が怪盗と結託して絵を盗み出した主犯と見なす!」
だが、シオンが口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
美術館の床を突き抜けるようにして、地下深くから――大地を震わせるような重い金属の衝突音と、女性職員の凄惨な絶叫が木霊した。
「ぎゃあああああああああっ!! か、館長が……! 誰か来てえええええっ!!」




