第72話:開演の鐘、演壇に立つ魔術師
『レディース・アンド・ジェントルメン! 古の光と影が交差する、奇跡の夜へようこそ!』
大講堂の高出力音響スピーカーを通じて、カミーユ・デュプレの甘美で滑らかな美声が、美術館の警備本部へも鮮明に中継されていた。
美術館から五キロ離れた『帝都大講堂』。
千人の観客がすり鉢状に埋め尽くす巨大なホールの中心、純白のスポットライトが演壇の上に立つ一人の男を鮮烈に照らし出していた。
真紅のシルクの裏地がついた漆黒のインバネスコートを優雅に翻し、胸元に大粒のエメラルドを輝かせたカミーユが、観客席に向かって深々と一礼する。
千人の観客が一斉に歓声を上げ、割れんばかりの拍手の嵐が吹き荒れた。
大講堂のすべての出入口には重武装の警察官がびっしりと張り付き、観客席の通路にも私服刑事が隙間なく配置されていた。
誰もが演壇のカミーユから目を離さない。
カミーユが指先を鳴らすと、何もない虚空から一輪の真紅の薔薇が出現し、次の瞬間にはそれが純白の鳩へと姿を変えて講堂の天井高くへと羽ばたいていく。
見事な奇術の連続に、観客たちは総立ちとなって熱狂していた。
『こちら大講堂警備班! 対象カミーユ・デュプレは現在も演壇上で実演を継続中! ステージ周囲に死角なし、替え玉の潜入も物理的に不可能です! カミーユはこの場を一歩たりとも離れられません!』
無線機から飛び込んでくる、現場捜査員の確信に満ちた絶叫。
だが、美術館の警備本部で受話器を両手で握りしめていたシオンの表情は、氷のように凍りついていた。
「……エルネスタ、大講堂の音声回線の周波数を最高感度まで上げてください。アンプのノイズフィルターを全開に」
「え? ええ、分かりましたわ!」
エルネスタが真鍮の受信機のダイヤルを素早く回す。
スピーカーから流れるカミーユの華麗な演説。観客のざわめき。
シオンは右耳を受信機にぴったりと押し当て、心臓の拍動すら止める極限の集中状態で、音の波形に意識を潜り込ませた。
チク、タク、チク、タク――。
シオンの脳内で刻まれる絶対的な基準時間。その微小な時間軸の上で、シオンの耳は決定的な『不整脈』を捉えた。
「……遅れている」
「何がですの、シオン殿!?」
「カミーユの声です。……人が言葉を発する時、声帯の振動とマイクロフォンの振動板への到達はほぼゼロ秒だ。だが、この受話器から聞こえるカミーユの声は、マイクの呼吸音に対して――およそコンマ零五秒遅れて再生されている!」
「コンマ零五秒……!? それは、どういうことですの!?」
「気温十五度における空気中の音速は、一秒あたり約三百四十メートル。より厳密には、摂氏零度での秒速三百三十一点五メートルに温度係数零点六を乗じた、秒速三百四十点五メートルだ。コンマ零五秒の遅延とは、声の発生源がマイクからおよそ十七メートル離れた高所にあることを明確に示している。……つまり、カミーユが実際に肉声を発している場所は、あの演壇の上などではない!」
シオンの瞳に、極微の狂いも許さぬ時計職人の鋭利な光が宿った。
大講堂の断面構造図。演壇の真上、高さ十七メートルの位置に鎮座する、三階旧映写室までの空間距離――それこそが、音響データの計算値と寸分の狂いもなく一致していたのだ。
「カミーユは演壇に立っていない……! あそこにいるのは、三階の映写室から石英光ファイバーを通じて、演壇の微細ミストスクリーンへと投影された【等身大の立体実像】だ!」
「な……なんですって……!?」
エルネスタが息を呑み、絶句した。
千人の観客が熱狂し、拍手を送り、警察官たちが目を皿のようにして見つめているその中心に立っている男が――血の通った人間ではなく、光と水滴が織りなす『幻影の彫刻』にすぎないというのか。
「目撃者千人の証言……それこそが、光学迷彩によって仕組まれた集団催眠だったのですわね……!」
「しかしシオン殿! もし演壇にいるのが幻影だとしたら、本物のカミーユは今どこに……!?」
「三階の映写室で自ら投影機を操作しているか……あるいは、すでに映写室の抜け穴から大講堂を脱出し、この美術館へと向かっている!」
その時だった。
ジリリリリリリ――ッ!
美術館の館内全域に、耳を聾するような非常警報のベルが鳴り響いた。
同時に、天井のスピーカーから無機質な機械音声による最終カウントダウンが開始される。
『特別展示室の皆様にご案内いたします。間もなく夜二十一時、帝国国宝「黄昏の幻影画」の初公開セレモニーを開始いたします。……二十一時まで、あと六十秒』
パツン、パツンと館内のシャンデリアが一斉に消灯され、特別展示室の中央で、防弾ガラスケースを照らすナトリウムランプの黄色い光だけが、暗闇の中に異様な鮮烈さで浮かび上がった。
招待客たちのざわめきと悲鳴。
ハルトマン卿が冷酷な笑みを浮かべ、軍用拳銃の撃鉄を起こしながらケースの周囲を取り囲む。
五十九秒、五十八秒、五十七秒……。
チク、タク、チク、タク――。
シオンの胸の時計が、運命の二十一時へ向けて冷酷に秒針を進めていく。
「エルネスタ、急ぎますよ! 展示室へ!」
「ええ、参りましょう!」
二人は警備本部を飛び出し、大理石の回廊を全力で駆け抜けた。
そして――帝都の中央鐘楼が、夜二十一時を告げる第一撃を重々しく打ち鳴らした、まさにその瞬間だった!




